哲学覚書

飯田隆『言語哲学大全III』覚書

クリプキ以後の指示を巡る議論を眺めるとき,「パラダイム転換」という用語を使いたくなる誘惑はじつに大きい.科学革命における理論の交代についてのクーンの記述の多くがここに当てはまるように思われるからである.クリプキにより新しく提起された理論は,問題解決能力に関して必ずしも旧理論(「フレーゲ‐ラッセル見解」)よりも優れているわけではない.それにもかかわらず新しい理論が支持者に事欠かないのは,何が中心的な問題であり何が周辺的な問題であるかの判断自体が変わりえたという理由によると考えられる.

クリプキ本人は『名指しと必然性』において提案した新たな見解を「よりよい見取り図 a better picture」と呼び,理論であるとは言わなかった.しかしクリプキ以後の哲学者らは,ただの見取り図に甘んじようとはせず,クリプキの提出した見取り図のもとに新たな「理論」を構想する.それが,「直接指示の理論 theory of direct reference」と呼ばれるものである.

「直接指示の理論」というのは,ある基本前提を共有するさまざまな理論を包括する名称である.その基本前提とは,「ある種の指示表現(典型的には固有名)は,対象のもつなんらかの性質によって対象指示をおこなうのではない」という主張である.

この基本前提から,直接指示の理論にとっての3つの問題領域が発生する.

  1. 対象のもつ性質によって対象指示をおこなうのではないとするならば,固有名による対象指示はどのような機構によって可能となるのか.
  2. 直接指示をおこなう指示表現は,固有名に限られるのか.もしそうでないとすれば,どのような表現が直接指示をおこなうのか.
  3. 「フレーゲ‐ラッセル見解」を支持すると考えられてきた,同一性言明と存在言明にまつわる困難に対して,直接指示の理論からはどのような解答が可能か.

7.3.1 指示の歴史的説明

直接指示の理論の提唱者は,1.の問題に対しては,語の使用の歴史に訴えることで答えようとする.

ドネランの「歴史的説明による理論」

「フレーゲ‐ラッセル見解」に対して提起されたさまざまな反論のなかで最も説得力に富むのは,「フレーゲ‐ラッセル見解」のテーゼ(C)1を退ける議論である.そこでドネランの「タレス」の例を取り上げる.

固有名「タレス」に現在のわれわれが結びつける記述が「万物は水であると言った古代ギリシアの哲学者」であるとしよう.ところがタレスについて伝えている古代の著述家――アリストテレスやヘロドトス――は間違っていて,万物は水であるというのはタレスの主張ではなかったとする.万物は水であると言ったのは,じつは古代ギリシアのある隠者であり,この隠者以外にこのように馬鹿げたことを言った者はいなかったとする.さらにこの隠者はまったく人を避けて暮らし,もちろん弟子もいず,後生になんの痕跡も残さずに一生を送ったとする.このような状況のもとでは,「万物は水であると言った古代ギリシアの哲学者」という記述の正しい指示対象は,この隠者である.もし「フレーゲ‐ラッセル見解」が正しいとすれば,「タレス」という固有名はこの隠者を指示することになり,われわれは「タレス」という固有名を使うたびこの隠者について語ることになる.だが,これは明らかに不合理である.

ドネランのこの例は,「フレーゲ‐ラッセル見解」のテーゼ(C)が疑わしいことを示すばかりでなく,固有名の指示の機構についての積極的示唆をも含んでいる.固有名の指示は,その固有名の使用の歴史のなかに求められる.「タレス」という固有名を,社会のなかで人から人へと受け継ぎ,使用してきた歴史のなかで,無名の隠者は登場しない.したがって固有名「タレス」が隠者を指示することはない.「タレス」の使用を歴史的に説明する対象が,その指示対象でなければならない.このように固有名の使用の歴史に訴える理論を,ドネランは「歴史的説明による理論 historical explanation theory」と呼ぶ.

クリプキの「指示の因果説」

クリプキの言う「よりよい見取り図」も,このドネランのものとほぼ同趣旨のものである(そのクリプキの見解は,現在一般に「指示の因果説 causual theory of reference」と呼ばれる).その概略はつぎのようになる.まず,ある対象に対して新しく固有名が授けられる――これをクリプキは「命名儀式」と呼ぶ.ついで,この固有名は,一つの言語共同体のなかで人から人へと受け継がれてゆく.この受け継ぎにあたって,固有名の受け取り手は,もとの人がその固有名によって指示するのと同じ対象を指示することを意図するのでなければならない.つまり,BがAから固有名「$N$」を学んだとするならば,Bは,「$N$」によってAが指示するのと同じ対象を指示することを意図する.したがって,こうした継承の歴史を遡るならば,「$N$」は,この固有名を最初に言語に導入した人が意図したのと同じ対象を指示することになる.% なお,たとえ固有名「$N$」の使い手が,「$N$とは何か」という問いに対して一意的な記述で答えることができないとしても,その使い手は「$N$」を問題なく使用できる.というのも固有名の継承の連鎖の末端にいる使い手が,この連鎖をいちいち辿ったりはしないし,だいいちそれは不可能だからである.

フレーゲの理論との比較

上述のような直接指示の理論は,フレーゲの理論とは相容れないものである.フレーゲによれば,固有名は意義Sinnをもつ.そしてこの意義Sinnというものは,2つの役割2を担うものとされていた.しかし上述の直接指示の理論が正しいとすれば,固有名はそうした2つの役割をもつ意義Sinnをもちえないのである.

フレーゲとの対立はそれだけにとどまらず,もっと根が深い.それは言語観そのものについての対立ですらある.フレーゲやラッセルにおいては,孤立した個人の言語理解の場面から出発している.固有名「$N$」が,ある個人の語彙のレパートリーに入るためには,その個人は「$N$」に意味(あるいは意義Sinn)を付与する(「標準理論」によれば,それに一連の記述を結びつける)必要がある.これに対して,直接指示の理論では,言語は本質的に社会的なものであることから出発している.この言語観からすると,多くの場合,語と意味との結びつきは,各個人がそのつど打ち立てるものではなく,社会のなかですでに存在するものであるということになる.

7.3.2 自然種名と物質名

直接指示の理論の提唱者は,2.の問題に対しては,自然種名と物質名も直接指示をおこなう語であると答える.

伝統的には,「牛」や「虎」のような自然種名,および「水」や「金」のような物質名が,独自の意味論的カテゴリーを形成するとは考えられてこなかった.たとえば「虎は肉食である」という文はふつう,「$\forall x(x\mbox{は虎である}\to x\mbox{は肉食である})$」とパラフレーズされるため,「虎」は述語の一部でしかなく,独自の意味論的カテゴリーを形成してはいない.

こうした常識に反して,クリプキは自然種名や物質名をも,固有名や確定記述と同様に「指示子designator」の仲間に入れ,そのうえで自然種名や物質名は固定指示子であることを示そうとする.

クリプキが標的とするのは,つぎのような考えである.「虎」や「水」という語によって人が理解している事柄は,同時に何が虎であり何が水であるかをも決定する.そして,この2つの役割を同時に果たすものは,「虎」であれば,「肉食である」「四本足である」「黄褐色で横縞がある」といった記述の束である.つまり,ある個体が「$K$」で表される自然種もしくは物質のサンプルであるための基準を与えるような記述の集まり$\phi_1,\phi_2,\ldots,\phi_n$があり,「$K$」を理解していることとは,そうした記述がなんであるかを知っていることであるというのが,基本的な考えかたである.こうして,「虎は,肉食であり,四本足であり,黄褐色で横縞がある」という文は分析的に真であり,必然的に真であるということになる.

しかしクリプキによれば,こうした考えは不合理である.というのも,虎が,それに通常結びつけられている性質のいずれをももたないということは可能だからである.たとえばわれわれがこれまで大規模な思い違いをしていて,虎は三本足であり,草食であり,ピンク色で格子縞だったということもありうる(この議論は,明らかに,「フレーゲ‐ラッセル見解」における固有名の考えに対する批判とパラレルなものである).よって,「虎」や「水」のような語に関しても,その語のもとに個々の話し手が理解している事柄と,その語が何を指すかを決定するメカニズムとは別物である〔それゆえ,自然種名・物質名もまた固定指示子であると結論づけられる〕.

そこで,固有名の場合と同じように,自然種名や物質名にも「歴史的説明」あるいは「因果的説明」が与えられる.自然種名や物質名もまた,継承の歴史によって何を指示するかが決まるというのである.

ただしここには,固有名の場合と一つ異なる点がある.自然種名や物質名の場合には,「同種」という概念が決定的な役割を果たすという点である.同じ自然種であること,同じ種類の物質であることは,一般に言語的規約だけで決まるものではなく,経験的探求によって決まるものである.ここで同じ種類の物質であるかどうかはその化学的組成によって決まるとすると,$\mathrm{H_2O}$という組成をもたない物質は水ではないことになる.「ある種に属する個体が,その性質をもたなければ,その種には属さないことになるような性質」を本質と呼ぶことにするならば,$\mathrm{H_2O}$であることは,水にとっての本質となる.

このような考察から,クリプキは,つぎのような結論を導く.つまり,水が$\mathrm{H_2O}$であることが真ならば,それはア・ポステリオリな真理であるにもかかわらず,必然的な真理であるという結論である.これはカント以来の哲学の常識と真っ向から対立する驚くべき結論である.

もっとも,このようなクリプキの議論には不明確さがまとわりついている.その原因は2つある.第一に自然種名・物質名の論理的身分が明確でないこと,第二に固定指示子という概念が無造作に使われていることである.たとえば,「虎」は述語であろうか,固有名であろうか.どちらにしても困難が生ずるように思われる.

7.3.3 指標詞

自然種名と物質名に加えて,指標詞(「いま」「ここ」「これ」「彼」といった語)もまた直接指示をおこなう語であるとされる.

モンタギューの理論

指標詞の意味論を与えるためには,言語表現の評価を指標indexと相対的におこなえばよいとモンタギューは考えた.たとえば,「いま雨が降っている」という文が指標$i=(w,t,p,a,\ldots)$で真であるのは,可能世界$w$の時点$t$,場所$p$で雨が降っているときである.このように指標に相対化された真理から出発して,指標的表現を含む言語における「論理的真理」の概念を定義することができる.論理的に真な文とは,その言語の任意のモデルのすべての指標で真である文のことである.さらに,この言語が必然性のオペレータ「$\Box$」を含んでいるならば,「$\Box\phi$」という形の文があるモデルで真であるのは,文「$\phi$」がこの同じモデルのすべての指標で真であるときである.

だが,この意味論には誤謬が含まれている.つぎの2つの文の真偽を考えてみよう.

(17)私はいまここにいる. (19) $\Box$私はいまここにいる.

直観的に考えて,(17)は正しく,(19)は正しくないと思われる.(17)は「私」「いま」「ここ」という語の意味から考えて,論理的真理である.ところが(19)は端的に偽である.私がいまここにいることにはなんの必然性もないからである.

よって,指標的表現の意味論の満たすべき条件として,つぎの2つを要求するのはまったく妥当であろう.

  • その理論から(17)が真であることが帰結すること.
  • (19)が真であることはその理論から帰結しないこと.

しかしモンタギューの理論はこの条件を満たしえない.モンタギューの理論では,(17)がそのもとで偽となるような指標$(w,t,p,a)$は無数にあるので,(17)を論理的真理とすることができない.指標を制限すれば(17)を論理的真理とすることができるが,そうすると今度は(19)までもが論理的真理であるということになってしまい,いずれにしても駄目である.

カプランによるモンタギューの理論の修正

そこでカプランはこの問題に対処するため,指標的表現は二種類の意味をもつと考えた.二種類の意味とは,「意味特性character」と「内容content」とである.たとえば,「私は昨日寝過ごした」という文だけが与えられて,その発話者が誰であるかもその発話の時点がいつであるかも知られていなくとも,われわれはこの文が「その文の発話者がその発話時点の一日前に寝過ごした」という意味だと理解できる.こうした理解は,われわれが指標的表現の意味特性を知っているからもてるものである.そうした意味特性の知識は,たとえば「『私』は発話者を指示する」「『昨日』は発話時点の一日前を指示する」といった規則によって表現される.

こうして,カプランによれば,指標的表現を含む文の真偽を決定するのには,2つの段階を踏むことになる.まず,発話のコンテキストから意味特性によって内容が決定される.ついで,真偽が評価されるべき情況3に照らして,第一の段階で決定された内容に従って,真偽が決定される.

このように発話のコンテキストと情況とを区別すれば,(17)が論理的真理でありながら(19)が論理的真理とならないような形で,指標的表現を含む言語の意味論を構成することができる(ただしその詳細については立ち入らない).

指標詞が直接指示をおこなうとはどういうことか

デカルトが1619年11月9日に,つぎのように言ったとしよう.

(22)私は存在する.

(22)の発話のコンテキストで,「私」の意味特性は,その指示対象がデカルトであることを決定する.よって,デカルトは存在するということが,ここで問題としているコンテキストで(22)が表現する内容であると言ってよいだろう.この内容を「$A$」と名づけよう.(22)がこのコンテキストで必然的真理を表現しているのか,それとも偶然的真理を表現しているのかが議論になるとしよう.そのときには,$A$が他の情況でも真であるかどうかが考察されねばならない.これは,デカルトが他の可能世界,他の時点で存在するかを考えることである.したがって,指標詞「私」がここでのコンテキストで(22)が表現する内容$A$に対して寄与するものは,デカルトその人であって,「私」の意味特性ではない.

このように,指標詞の意味論は,フレーゲが意義Sinnに担わせた2つの役割――(a)言語理解の相関者,および(b)指示対象の決定のメカニズム――を同時に果たすような,単独の意味的要因が存在しえないことを示している.カプランの言う意味特性は(a)に,内容は(b)に対応している.「私」「いま」といった指標詞の意味特性は,その指標詞を理解している人が理解している事柄であるが,それはその指標詞を含む発言の内容の真偽の評価(フレーゲの言うイミBedeutungの決定)にはいっさい関与しないのである.カプランによれば,そういう発言の内容の真偽の評価に関与するものは,指標詞によって導入される対象そのものである.

(22)は単称命題(singular proposition)であると見做されるべきであるとカプランは言う.この単称命題は,「私」の指示対象であるデカルト本人と,述語「存在する」によって導入される性質の組として,つぎのように表される.

(26)〈デカルト,存在〉

単称命題という枠組みの導入によって,「直接指示をおこなう directly referential」ということの特徴づけが得られる.

「直接指示をおこなう」という用語は,その指示対象がいったん決定されるならば,すべての可能な情況で固定されていると見做される表現,すなわち,その指示対象が命題の構成要素であるような表現に対して用いられる.

7.3.4 「フレーゲのパズル」

「直接指示をおこなう表現は,その指示対象じしんを構成要素とする単称命題を引き入れる」というカプランの説は,指示の「直接性」という概念を捉えることに優れて成功しているように見える.だが,この説を採用することは,直接指示の理論の破産を告白することに等しいようにも見える.というのも,カプランの説には,フレーゲやラッセルの理論がそもそも出発点としていたはずの問題を解く能力がまったくないように思われるからである.

カプランの説に従えば,

(1) ヘスペラス=フォスフォラス (3) ヘスペラス=ヘスペラス

という2つの文はどちらも,まったく同一の単称命題

(27) 〈〈金星,金星〉,同一性〉

を表現していることになる.これでは,固有名についての「素朴な直観」に舞い戻っただけのことのように思える.

異なる固有名どうしの同一性言明が認識的価値をもつことを,疑いえない意味論的事実として受け入れるところからフレーゲの理論は出発している.それに対して,直接指示の理論の支持者は,これらの意味論的事実は固有名の意味論の出発点ではなく,理論にはつきものの,理論と一見矛盾する変則的現象が提起するパズルにすぎないと主張する.直接指示論者は,そうしたニュアンスを込めて,同一性言明の問題を「フレーゲのパズル」と呼ぶ.では,直接指示論者はどのようにして「フレーゲのパズル」を解決しうるであろうか4

カプランの見解

カプランの指標詞の理論においては,フレーゲが意義Sinnに課した2つの役割は,内容と意味特性とに分解された.この,同一の内容に異なる意味特性が対応するという可能性のなかに,「フレーゲのパズル」の解決を見出だせるようにも思われる.

だが,カプランによれば,そうした期待は満たされえない.なぜならば,指標詞の場合と違って固有名の場合,その意味特性は内容と一致し,したがってどちらも指示対象と同じだからである.固有名の場合は,意味特性,内容,指示対象がすべて一致するのである.したがって固有名どうしの同一性言明が認識的価値をもちうることを,意味特性の違いによって説明することは不可能であると,カプランは結論づける.

ドネラン‐クリプキ流の説明を受け入れることは必ずしもただちに「固有名がその指示対象以外のものを意味としてもたない」という結論には導かないように思われるかもしれない.すなわち,「『$N$』の現在の使用と,これこれの歴史的(因果的)関係に立つ対象」といった記述が,固有名「$N$」の意味特性を与えると考えればよいのではなかろうか.だが,こう考えることは,固有名はなんらかの記述によってバックアップされる必要があるとする「フレーゲ‐ラッセル見解」に逆戻りすることにほかならない.

カプランによれば,問題は,固有名の指示のメカニズムに関する,ドネラン‐クリプキ流の説明の意味論的地位が明瞭でないことにある.

たとえば,「ゼノン」という名前で呼ばれる人は複数存在する.それどころか,そう呼ばれるもののなかには人間以外のものすらありうる(ロック・グループの名前や薬の名前など).では「ゼノン」は,そのさまざまな使用において多義的であると言うべきであろうか.むしろ,「橋」と「端」のような同音意義の現象であると考えるべきであろう.

こうした現象を見るならば,ドネラン‐クリプキ流の説明は,「ゼノン」の個々の使用において,何が指示されるかを決定するメカニズムを与えるという性格のものではない.むしろ,たがいに同音意義であるさまざまな「ゼノン」のうちのどの語が用いられているのかを決定するという性格のものである.つまり,指示の歴史的説明理論は,固有名の意味論に属するものではなく,ある語がどの固有名であるかを決定する前意味論(presemantics)に属すると見做すべきであろう.

サーモンによる語用論的な解決

カプランのこうした結論を受けて,最近の理論家たちは,固有名のもついわゆる認知的意味(cognitive significance)を,本来意味論が扱うべき範囲には入らないと主張する.以下ではサーモンによる説とウェットスタインによる説とを検討する.

サーモンは,「フレーゲのパズル」の解決を語用論に求めようとする.「フレーゲのパズル」が問題として成立するためには,(3)はなんら新しい情報を与えずトリビアルであるが,(1)はきわめて有意義な情報を与える,という前提が必須である.

(1) ヘスペラス=フォスフォラス (3) ヘスペラス=ヘスペラス

驚くべきことにサーモンは,この前提を拒否する.「$N=N$」という形の文ではなく,「$N=M$」という形の文は,「$N$」と「$M$」が同一の対象の名前であるという情報を与えるが,サーモンによれば,この情報は語用論的に伝達される情報であって,意味論的に書き込まれた情報ではないというのである.

だが,このような説明を受け入れると,信念や知識などの命題的態度にかかわるわれわれの語法においても,同一対象を指示する固有名は自由に交換可能であるという帰結をも受け入れなければならなくなる.たとえば,ヘスペラスがヘスペラスであることを知っている者は誰でも,ヘスペラスがフォスフォラスであることも知っていることになる.これは,われわれの語法とまったく相容れないが,サーモンによれば,通常の語法に従うことは偽であることを言うことになるのだから,ただ真であることを言うことが問題なのであれば自分の勧める方法に従うべきであるとする.

ウェットスタインによる解決

認知的意味の問題は,言語のはたらきを理解するためにはぜひとも解明されねばならないと通常考えられてきた.しかしウェットスタインは,この前提を攻撃する.指示の歴史的説明に関して触れたように,直接指示の理論の根底にあるのは,言語は本質的に社会的なものであるという言語観であった.この言語観を前面に押し出すならば,言語のはたらきを解明するという意味での意味論が対象とすべきなのは,社会制度としての言語であるということになろう.つまり意味論とは,「自然言語を成り立たせている制度的仕組みについての人類学」であるということになる.こうしてウェットスタインは,フレーゲ以降の伝統に反して,言語と世界とをつなぐとされてきた個人の言語理解という要素を意味論から追放する.

(a)名前に習熟している者はその名前の意味を知っているという常識的な仮定と,(b)名前の意味はその指示対象に尽きるという直接指示論の主張とを同時に受け入れることはできない.だからこそフレーゲ以来の固有名論は,(b)を捨て去る道を選んできたのである.それに対してウェットスタインが選ぶ道は,むしろ(a)を捨て去ることである.つまり,個人の言語理解が,言語の本質的社会性という名目のもと,意味論から完全に追放されてしまった結果,言語の話し手は,自身が何について語っているのかを知らなくとも,その言語に習熟していると言えることになる.こうして,「フレーゲのパズル」はもはやパズルではなくなるのである.

言語は社会的制度であると同時に,個人の考えを表現するための道具でもある.それにもかかわらずウェットスタインは前者の側面のみを残し,後者を切り捨てようとする.これが偏った言語観であると言って批判することはたやすい.だが,どうすれば言語にとって本質的であるこの2つの側面を統合できるのか,これに答えることはきわめて困難な作業であるに違いない.


  1. 固有名「$N$」は,それに結びつけられている記述に現れる条件「$\phi$」を満足する唯一の対象が存在するとき,それを指示対象としてもつ.さもなければ「$N$」は指示対象をもたない(p.263). ↩︎

  2. 単称名$\alpha$の意義Sinnは,(a) $\alpha$が属する言語の使い手が$\alpha$を理解していると言われているとき,その理解されている事柄(言語理解の相関者としての意義Sinn)であるのと同時に,(b) $\alpha$のイミBedeutung,すなわち,その指示対象が確保されるメカニズムを与えるもの(イミを決定するものとしての意義Sinn)であるのでもなければならない(pp.259–260). ↩︎

  3. 可能世界と時点の組をカプランは「情況circumstance」と呼ぶ. ↩︎

  4. 同じく,「ヴァルカンは存在しない」といった否定的存在言明についての問題は,さしずめ「ラッセルのパズル」と呼ばれるのが適当であろうが,この「ラッセルのパズル」については現在はかばかしい解答が得られていないので,ひとまずこの項では「フレーゲのパズル」に話を限る. ↩︎

2017年10月31日
2021年8月14日
#philosophy #language