哲学覚書

価値理論の覚書

哲学において、「価値理論(value theory)」という語は少なくとも三つの異なる仕方で用いられている。最も広い意味では「価値理論」は、道徳哲学、社会哲学、政治哲学、美学、フェミニスト哲学、宗教哲学など(つまり、ある「評価的」側面を覆うと思われる哲学の領域なら何でも)を包含するような包括的なラベルである。最も狭い意味では「価値理論」は、特に帰結主義者に関する比較的狭い範囲の規範倫理学理論に対して用いられる。この狭い意味においては、「価値理論」は「価値論(axiology)」とほぼ同義である。価値論は、良いものの分類やそれらがいかに良いかに主に関心をもつと見做すことができる。例えば、価値論の伝統的な問題には、価値の中心は主観的な心理状態かそれとも世界の客観的な状態かというのがある。

しかしより便利な意味では、「価値理論」は、ありとあらゆる価値と善についての理論的問題に関心をもつ道徳哲学の領域を指示する。このように解された価値理論は、価値論を包含するが、しかし価値の性質や他の道徳的概念との関係についての多くの問題をも含んでいる。道徳理論を価値理論へ分割することは、他の探求領域とは対照的に、伝統的な区分である規範的探求とメタ倫理的探求とを横断するが、それ自体が価値ある区別である。価値についての理論的探求は道徳理論における興味の核心を構成し、しばしば規範倫理・メタ倫理の境界を横断し、探求の際立った歴史をもつ。本稿では、価値理論において浮かび上がる様々な問題を調査し、それらが相互にどのように関連しているかについていくつかの観察を含めることにより、その地形に構造を与えることを試みる。

1. Basic Questions

  1. 快は良い。Pleasure is good.
  2. 君が来たのは良いことだ。It is good that you came.
  3. 彼にとって彼女と話すのは良いことだ。It is good for him to talk to her.
  4. あれは良いナイフだ。That is a good knife.

1.は、伝統的な価値論の中心部分を構成するもの。このような文を価値主張(value claim)と呼ぼう。2.は、端的な良さ(goodness simpliciter)についての主張と呼ぼう。伝統的な功利主義が訴えたような種類の良さである。3.は、相対的な良さ(good for)である。福利(welfare)とか幸福についての主張。4.は、属性的(attributive)な良さである(Geach 1960)。

価値理論の基本的問題の多くは、これらの種類の主張が互いにどのように関係しているかについての問題から始まっている。1.1節はこれら四つの文の関係について。1.2節は、good、better、badの関係について。

1.1 Varieties of Goodness

端的な良さについての主張は、道徳哲学において最も注目を集めてきたものである。これは帰結主義の影響が大きい。しかし、このような主張が他の種類の良さの主張とどのように関連しているかについては、様々な理論の余地がある。

1.1.1 Good Simpliciter and Good For

視点理論というものを考えてみよう。相対的な良さは例えばジャックの視点から見て良いということを、端的な良さは宇宙の視点から見て良いということを意味する(Nagel 1985と比較せよ)。この立場の問題の一つは、視点でありうるものの種類に意味をもたせることだ。ジャックと宇宙がどちらももちうるような、「視点」なるものは一体何なのか。

凝集理論によれば、端的な良さは、存在するすべての人の相対的な良さを「合計する」ことによって得られる。Rawls (1971) はこの考えを功利主義に帰しており、Smart and Williams (1973) へのスマートの貢献のような功利主義的な議論に適合する。しかし正確にするためにはさらに多くの作業を行なう必要がある。「一日中太陽の下でその服を着ることは、あなたの日焼けライン1にとって良くはないだろう」とわれわれはしばしば言う。しかし「あなたの日焼けラインにとっての良さ」は、端的な良さを得るのに合計するのはもっともらしくない。それゆえ、知性や感覚のあるものだけが「〜にとって良い・悪い」と言えるものではないという事実は、「〜にとって良い」という関係の説明や、相対的な良さと端的な良さとはいかに関係しているのかの理論に対して、重要な制約を課す。

端的な良さと相対的な良さを、一方を他方で説明するというやり方ではなくて、一方を棄却して他方のみを真剣に受け入れるという哲学者もいる。例えばフィリッパ・フット(Foot 1985)は、端的な良さについての言明は言及されていないある人にとっての相対的な良さについての言明として理解できるとした。端的な良さについての主張に見えるものはしばしば相対的な良さについての総称的量化文であるということを認めることで、このフットの見解は強調された(Shanklin 2011, Finlay 2014と比較せよ)。よく知られているように、Thomson 2008が同様の立場を擁護している。

対照的に、G・E・ムーア(Moore 1903)は相対的な良さの主張を理解するのに奮闘した。利己主義へ反論するという文脈でムーアは、「ジャックにとって良いこととは、単に、良いことのうちジャックの所有物であるものだ」という理論を倫理的利己主義者に帰している。ムーアはこれらのテーゼに直接に反論はしなかったが、それらは普遍化可能な利己主義に結びつき得ないということを彼は示した。ムーアの議論を避けるために、利己主義者はこれらの相対的な良さの分析を拒否することのみが必要であるが、これはいずれにせよ見込みがない(Smith 2003)。

1.1.2 Attributive Good

別の見解によれば、端的な良さは属性的な良さの観点から理解される。結局のところ、われわれは端的な良さをどのような種類のものに帰属させればよいのだろうか。多くの哲学者によれば、それは命題に、もしくは状況にである。このことは、われわれが考えてきた例に対する大雑把な研究によって支持される。その例においては、良いと言われるものは、「if」「that」「for」といった補文標識によって抽出されると思われる。例えば「もし君がそれをやったら、それは良いことだ」「君が来ることは良いことだ」「それはいま終わるほうが良い」。(Foot 1985によれば)もし補文標識のフレーズが命題や可能な状況を指示しているならば、「端的に良い」ということは「良い状況である」ということであり、したがって端的な良さは属性的な良さの特別な場合である、と推測するのは理にかなっている(もしそれが完全に意味を成すのであれば。ギーチとフットはともに、状況というものは属性的な良さの主張を支持するには薄すぎる種類のものであることを根拠に、それは意味を成さないと議論している)。

属性的な良さについては、「Supplement on Four Complications about Attributive Good」も参照のこと。

幾人かの哲学者は、非認知主義的なメタ倫理学理論に反論する議論を展開させるために、属性的な良さと相対的な良さの例を用いてきた。議論の概要は次のもの。非認知主義の理論は端的な良さを扱うよう設計されているが、属性的な良さや相対的な良さについては困難を抱えている。それゆえ、非認知主義の理論に対しては一般的な問題が存在するか、あるいは少なくとも重大な欠陥が存在することになる。非認知主義の理論はいわゆる「行為者相対的」な価値についての問題を抱えているだろうという懸念もある(4節参照)。この主張を考察する余裕はここにはないが、しかしもしこれらのような「良い」という語の関係的な使用が実際に非認知主義に対する深く特別な問題であるならば、それは驚くべきことだろうということは注意したい。『道徳の言語』におけるヘアの説明は、とりわけ「良い」の属性的な使用についてのものであり、なぜ関係的な非認知的態度が関係的な信念よりも理解するのが難しいのかは明らかでない。

1.1.3 Relational Strategies

先程説明した戦略の延長で、一部の哲学者は、端的な良さ、相対的な良さ、属性的な良さを特別な場合として扱うことを目指すような「良さ」の見方を提案している。このアプローチの実例は、Ziff (1960) や Finlay (2004, 2014) の「目的関係的(end-relational)」理論である。ジフによれば、良さについてのすべての主張は目標や目的に相対的であり、相対的な良さや属性的な良さの文は、単に目的を明示的にするための異なる方法にすぎない。例えば、ジャックにとっての良さについて語ることはジャックの幸福の目的をいわば明示化するのであり、また何が良いナイフかについて語ることはわれわれのナイフの使用目的(物を切ること)を明示化するのである。このように、良さについての主張は相対化される。

この戦略を採用する立場は、正確には、「良さ」についてのさらなる関係的なパラメータは何かという問題に答える必要がある。目標(ends)だと答える人もいれば、目的(aim)だと答える人もいる。さらに、この立場を十全なものにするためには、相対的な良さや属性的な良さの主張においていかにこれら目的が明示化されうるのかのメカニズムを解明できなければならないし、これらの種類の主張をきわめて一般的な種類のものとして理解できる必要がある。そして、むろんこの種の立場は「端的な良さの文は(おそらく文脈に依存して)目的パラメータが特定されたときのみ真偽を定めうる」という予測を生み出す。

これが意味するのは、この立場は倫理学における「良さ」という語の中心的な使用の仕方を説明するのに失敗するという反論を受けやすい、ということである(倫理学における「良さ」の使用は、非相対的である)。J・L・マッキーはこのような見方をし、この結果を採用した(Mackie 1977)。「良さ」の錯誤説は、このように想定される「良さ」の非関係的な意味にのみ適用される。マッキーはそのような「良さ」の使用があると認めているが、マッキーはそれらが誤っていると結論づけている。対照的に、「良さ」の非関係的な使用があるように見えることの説明をするために、日常的な語用論的効果を用いることができるとフィンレイは主張する(Finlay 2014)。一見して「良さ」の非関係的な意味に見えるものは、本当は関係的なのだとフィンレイは論ずる。フィンレイはそれらがなぜ非関係的に見えるのかを説明しようとしている。

1.1.4 What’s Special About Value Claims

価値主張は、他の「良さ」の主張ときわめて異なっているように見える。「快は良い」し、「知識は良い」。しかしこのとき、快と知識のどちらが良いかと問うことは意味を成さない。これは、「Aは良いダンサーだ」「Bは良いダンサーだ」が成り立つとき「AとBどちらが良いダンサーなのか」と問うことが完全に意味を成すのとは対照的である。

このことの説明として、価値主張を、端的な良さの主張に基づいて説明する立場がある(good-first theory)。逆に、端的な良さを価値主張に基づいて説明する立場もある(value-first theory)。

より懐疑的な見方によれば、「快は良い」のような文は他の良さの主張と区別されるものではない。「快は良い」とは単に「快はジルにとって経験するのが良い」という意味にすぎない。Finlay (2014) によっても発展させられたアイディアを追うことで、一般に相対的な良さの文は「fun」のような経験者格の形容詞(まさに次のような構文的変形を許す。「ジャックはジルと話すのが楽しい」「ジャックは話すのが楽しい」「ジャックは楽しい」)と同じパターンを示すのだとシャンクリンは論ずる(Shanklin 2011)。この見解は、上のパラグラフで議論した問題の虚偽を暴く。というのもそれは、価値主張についての注目すべきトピックが存在することを否定するからだ。またこの見解は、省略されたものの違いに訴えることで、端的な良さの文は比較できないということにも説明を与えうる。

1.2 Good, Better, Bad

1.2.1 Good and Better

good、better、bestの関係は、tall、taller、tallestの関係と同じであると思われる。tallは段階的形容詞(gradable adjective)であり、tallerはその比較級である。標準的な見解では、段階的形容詞はその比較級によって分析される。最も下にあるのはtaller thanという関係である。「ある人が最も背の高い女性である」のはその人が他のどの女性よりも背の高い場合である。同様に、「ある人が背が高い」のは、その人が文脈的に適切な基準よりも背が高い場合である(Kennedy 2005)か、もしくは文脈的に適切な比較すべき人々の集団に対して十分に多くの人より背が高い場合である。

道徳哲学の多くはgood、better、bestをきわめて異なったものと想定しているように思われる。better thanを基礎概念にする代わりに、哲学者は多くの場合、goodを基礎概念にしている(ように見える)。例えば、多くの理論家は何が良いものであるかの分析を提案しているが、これは「goodはbetterから理解されるべき」という考えと矛盾するものである。しかし、goodはtallとはまったく異なるのだとする理由がないのであれば、これは非常に奇妙な主張であり、価値理論の他のいくつかの問題を歪める可能性がある。

1.2.2 Value

betterをgoodに基づいて理解するのは困難である。太郎は次郎よりも良い短距離走者であるのは、次郎が良い短距離走者であるよりも太郎が良い短距離走者であるほうが多いから、というわけではない。しかし、goodとbetterをともに価値の観点から理解することができる可能性がある。もしgoodとbetterの関係がtallとtallerの関係と同じなのであれば、価値の比喩は直観的には高さになるべきだ。AがBよりも背が高いのは、Aの高さのほうが大きい場合である。同様に、状況CのほうがDよりもよいのは、Cの価値のほうが大きい場合である。「価値」なるものにこのような役割を想定するならば、それは価値の量によって特定されるのは自然である。

しかしこの動きは、属性的な良さに適用する際には説得力がないかもしくは不必要であるように思われる。例えば、「缶切りの価値」なるものがあるだろうか[多分、「缶切りの価値」みたいなのが実在するというのが奇妙ということなんだろうと思う]。この場合、betterとは、単により多くの価値をもつことを意味するのではないかもしれない。

1.2.3 Good and Bad

さらにこれらの問題は、他の問題と関係している。例えばbetterはworseと逆の関係にあるように見える。AがBよりも良いのは、BがAよりも悪いときかつそのときに限る。それゆえ、「良い」とは「十分に多くのものよりも良い」であり、「悪い」とは「十分に多くのものより悪い」であるとすれば、周辺の興味深い事実のすべては「何が何とbetter thanの関係にあるのか」を査定することで捉えられるように思われる。もし「良い」とは「文脈的に設定される基準よりも良い」という意味なのだとしても、同じことが言える。しかし、何が何よりも良いのかの目録は興味深く重要なこと(すなわち、何が良いのか)を除外してしまっている、と多くの道徳哲学者は考えてきた。

もしこれが正しいとすれば、goodはbetterから理解されうるということを否定する一つの重要な動機となる。しかし、この種の議論については注意深くあることが重要である。例えば、tallについて一般に考えられているのと同様、「良い」の基準ないし関連する比較対象の集合は発話の文脈によって幾分か供給される。したがって、「あれは良い」が真であるかどうかを知るためには、何が何よりも良いのかのすべての事実以上のことを知る必要があるのだ。すなわち発話の文脈から供給される比較対象の集合ないし基準を知る必要があるのである。したがって「良い」はこのような仕方で文脈依存的であるという仮定はそれ自体、まさに前の議論を動機づけている直観を説明する類のものでありうる。[つまりこういうこと。「何が何よりも良いのかの目録は興味深く重要なこと(すなわち、何が良いのか)を除外してしまっている」というのは確かに正しい。しかしだからといって、必ずしも「betterに回収されないようなgoodの意味がある」ということにはならない。単に「goodとは文脈依存的な語である」という可能性もあるからだ。こういうことを言っている]

3. Relation to the Deontic

価値についての最も大きく最も重要な問題は、価値と義務論的カテゴリー(正義、理由、合理性、公正、義務)との関係の問題である。目的論的な見解(古典的帰結主義や普遍化可能な利己主義が古典的な例)では、義務論的カテゴリーは評価的カテゴリー(goodやgood for)によって説明される。評価的カテゴリーは義務論的カテゴリーによって説明されるとする対照的な見解には、名前がない(アリストテレスの言うように)。しかしその最も重要なものに、態度適合(fitting attitude)理論がある。スキャンロン(Scanlon 1998)の責任転嫁理論(buck-passing theory)も関係の深い現代の理論の例である。

3.1 Teleology

目的論的理論(teleological theories)は、価値についての理論ではなく、正しい行為についての理論あるいは何を為すべきかについての理論である。しかし目的論的理論は価値に関する主張にコミットしている。というのも義務論的な事実を説明するために評価的な事実に訴えるからだ。したがってこれら理論の最も明白な帰結は、評価的な事実は義務論的な事実によって説明されるべきでないということだ。この見方によれば、評価的なものは義務論的なものに先行しているということになる。

3.1.1 Classical Consequentialism

目的論的理論のうち最も馴染み深いのは、古典的帰結主義である。これはしばしば「行為者中立的帰結主義」と呼ばれる。

3.1.3 Other Teleological Theories

普遍化可能な利己主義は、別の馴染み深い目的論的理論である。これによれば、各々の行為者はつねに、もしそれを為したならば自身にとって最善であることになるというような特徴をもつ行為なら何でも為すべきだとされる。普遍化可能な利己主義は多くの特徴を古典的帰結主義と共有し、シジウィックはどちらにも魅力を見出していた。どちらの考えも、義務論的カテゴリーは評価的カテゴリーによって説明されるべきだという目的論的なアイディアを共通してもつ。この点に魅力を感じた人々はシジウィックに賛同した(Portmore 2005)。

むろん、すべての目的論が帰結主義や利己主義のもつ幅広い特徴を共有しているわけではない。例えば古典的自然法論(Finnis 1980, Murphy 2001)は目的論だが善の促進を唱えてはいない。

3.2 Fitting Attitudes

態度適合理論は、義務論的カテゴリーによって評価的カテゴリーを説明しようとする。目的論的理論がそれ自体は価値についての理論ではなかったのと異なり、態度適合理論は第一に価値についての理論である。

どの態度適合理論の背景にもある基本的なアイディアは、「良い」は「望ましい(desirable)」と密接に結びついているということである。むろんdesirableは、visibleやaudible(これらはそれぞれable to be seen、able to be heardを意味する)と対照的に、able to be desiredを意味しない。それはむしろ、「正しく望まれる」とか「適切に望まれる」を意味する。「良い」とは「望ましい」にほかならないとすれば、「良い」とは「正しく望まれる」にほかならないことになる。「正しく」とか「適切に」は義務論的カテゴリーであるから、義務論的カテゴリーによって評価的カテゴリーが説明されることになる。これが、態度適合理論の基本的なアイディアである(Ewing 1947, Rabinowicz and Rönnow-Rasmussen 2004)。

3.2.1 Two Fitting Attitudes Accounts

シジウィックによれば、「良い」とは「望まれるべきである」にほかならない。しかし、誰によって望まれるべきなのか。すべての人か。少なくとも一人の人か。特定の誰かか。またこれはどの意味の「良い」の説明なのか。端的な良さの説明なのであれば、「pは良い ⇔ ___はpであるよう望むべきである」となるが、___には誰が入るのか。あるいは価値主張の説明なのであれば、「快は良い ⇔ 快は___によって望まれるべきである」の___に入るのは誰か。

前者はgood-first theory、後者はvalue-first theoryである(1.1.4節参照)。端的なgoodより端的なbetterのほうが根本的なのであれば、good-first theoryの支持者はbetterの態度適合理論を必要とすることになる。シジウィックのスローガンはその場合、次のように修正されることになる。「qよりpのほうが良い ⇔ ___はqよりもpを望むべきである(qよりもpを好むべきである)」。

T・M・スキャンロンはその著書で価値の責任転嫁理論と呼ばれる一種の態度適合理論を提唱した。スキャンロンのスローガンによれば、「何かを価値あるものだと見做すことは、それをある仕方で尊重して扱う理由を提供するような性質をそれがもつと言うことにほかならない」。シジウィックと異なり、スキャンロンのスローガンは義務論的概念として「べき」ではなく「理由」を用いている。しかし別の違いもある。シジウィックのスローガンでは「望まれる」ことがつねに必要とされるが、スキャンロンのスローガンでは「ある仕方で」となっており、異なる価値に対しては異なる反応があってよいというものになっている。

しかしスキャンロンとシジウィックのスローガンは、曖昧であるという特徴を共有している。どの意味の「良い」の説明になっているのか。「良い」の直接の説明になっているのか、それともgoodよりbetterを根本に置いて解釈し直すべきなのか。そしてより重要なことは、どこまでが「ある仕方」に含まれるのか。単に話者がある仕方を心に抱かねばならない、ということはできない。例えば、恐怖を抱くべき理由がある場合など。[?]

[この段落はいまいち分からないけど多分、理由が衝突した場合の問題みたいなのを言っていると思う]

3.2.2 The Wrong Kind of Reason

しかし、これらの問題が解決されたとしても、別の重要な問題が残っている。例えば、間違った種類の理由問題(the Wrong Kind of Reason problem)である(Crisp 2000, Rabinowicz and Rönnow-Rasmussen 2004)。この問題は、「直観的にはある要因が、何が良いかには影響を与えずに何を望むべきかに影響を与えうる」という観察に基づいている。悪いことを望むことによってかなりの額の金を得ることができる場合。あるいは、あなたがそうしない限り[悪いことをしない限り?]悪魔があなたの家族を殺す恐れがある場合。このような状況は、シジウィックの定式化に対する反例になっていると思われる[xが望まれるべきことであるからといって、必ずしもxは良いことであるとは限らないということの例]。同様に、このような状況があなたに悪いことを望むべきである理由を提供するならば、スキャンロンの定式化に対する反例ともなる。この問題が「間違った種類の理由」問題と呼ばれるのはこのスキャンロンの定式化の文脈においてである。

この問題は近年多くの実りある探求のトピックとなってきた。研究者は、このような「外的な」動機によって与えられた欲求すべき理由の問題と、信念の語用論的理由の問題と、グレゴリー・カフカの毒素パズルに存する意図の理由の問題とのあいだに、平行性を見出している(Hieronymi 2005)。欲求、信念、意図のケースに焦点を当てることで、「正しい種類」の理由と「間違った種類」の理由との区別は、「対象の与えた object-given」理由(態度の対象を指示している理由)と「状態の与えた state-given」理由(心的状態それ自体を指示している理由)との区別に基づくとする論者もある(Parfit 2001, Piller 2006)。ただし議論の余地はある。

3.2.3 Solving the Problem

しかしながら、間違った種類の理由問題を解くためには、さらなる一手が必要である。これまでに、少なくとも三つの異なる戦略が提案されている。[…]

価値の態度適合理論と間違った種類の理由問題に関するさらなる議論は「fitting attitude theories of value」の項目を参照のこと。

3.3 Agent-Relative Value?

3.3.1 Agent-Centered Constraints

古典的帰結主義に対する最も中心的で原則的な問題は、行為者中心制約(agent-centered constraints)と呼ばれるものの可能性である(Scheffler 1983)。功利主義は殺人のような間違った行為に内在的な負の価値2を認めないので、[一人の人間を]殺人するのと二人の人間を死なすのとでは殺人を選ぶべきだという解答を生み出してしまう、というのが、長いあいだ功利主義的理論に対する反論となってきた。

無実の人を殺すのは内在的に悪いと考える帰結主義者は、この解答を避けることができる。殺人が普通の死よりも少なくとも二倍悪い限り、帰結主義者は(たとえ二人の死を防ぐために殺人をするのだとしてさえ)なぜあなたが殺人すべきでないかを説明することができる。それゆえ、この種の例によって想定された帰結主義者に対する原理的な問題は存在しないことになる。つまり、この問題が帰結主義者にとって問題かどうかは、帰結主義者の価値論に、すなわち帰結主義者が何を内在的に悪いと考えているか、そしてそれをどれほど悪いと考えているか、に依存するのである。

しかし、この問題は帰結主義者にとっての真正の問題ときわめて強く関連している。一人を殺すことによって二人を殺されるのを避けることができるとしたらどうだろうか3。このケースでは、先程のようなやり方では「あなたは殺人すべきでない」という直観を守ることはできない。しかし、ほとんどの人は、たとえあなたは何千人もの人が殺されるのを防ぐためなら一人を殺すべきなのだとしても、あなたは二人が殺されるのを防ぐために一人を殺すべきではない、と想定するのが前理論的に自然であると考える。この自然な直観において、殺人に対する制約は「殺人は悪い」というアイディアを超えるものである。あなたが人殺しをすることの悪さは、あなたが殺人するのを防ぐために、他人が為すべきことよりもあなたが為すべきことにより影響を与えることを、その制約は要求する。そういうわけで、この制約は「行為者中心」と呼ばれるのである。

3.3.2 Agent-Relative Value

行為者中心制約の問題は、すべての正しい予測を生み出すような結果を評価する単一の自然な方法が存在しないように思われることである。各々の行為者にとって、その行為者が何を為すべきかについての正しい予測を生み出すような結果を評価する方法は存在する。しかしこれらの順位付けはその行為者の行う殺人の悪さを他の行為者が行う殺人の悪さよりもより悪いものとして扱う。したがってその結果、他の行為者が何を為すべきかについての正しい予測を生むためには不整合な順位付けが必要になるように思われる。

この観察の結果、哲学者は行為者相対的価値(agent-relative value)と呼ばれるものを仮定してきた。行為者相対的価値という概念は次のようなものだ。better than関係を行為者に相対化したとすると、「フランツが人殺しすることはジェンズが人殺しするのよりもフランツに相対的に悪い。一方、ジェンズが人殺しすることはフランツが人殺しするのよりもジェンズに相対的に悪い」ということがありうることになる。これら対照的な順位付けは不整合ではない。というのもそれぞれは異なる行為者に相対化されているからである。

行為者相対的価値という概念は目的論者にとって魅力的である。なぜならばこの概念は、制約を説明する古典的帰結主義と構造がよく似ている見解を許すからである。この見解はしばしば行為者相対的目的論(Agent-Relative Teleology )あるいは行為者中心的帰結主義(Agent-Centered Consequentialism)と呼ばれるが、こうした見解によれば、各々の行為者はつねに自身に相対的に最良の結果をもたらすような行為を為すべきである。この見解は、殺人しないことへの行為者中心制約を容易に提供しうる(各々の行為者にとって自分が殺人することは他者が殺人することに比べて自身に相対的に十分により悪いという仮定のもとで)(Sen 1983, Portmore 2007)。

行為者相対的目的論は古典的帰結主義と区別される理論でさえないと主張する哲学者もある。英語のgoodという語は文脈依存的な仕方で行為者相対的な価値を選び出すので、帰結主義者が「どんな人も最良の結果をもつようなことを為すべし」と言うとき、実際には「どんな人も、その人に相対的に最良の結果をもつようなことを為すべし」と言っているに等しいのである(Smith 2003)。また、他の哲学者は、「行為者相対的目的論は、現実にどの人もコミットしているような魅力的な理論である」と提案してきた(Dreier 1996)。これらのテーゼは価値理論においては大胆な主張である。というのもこれらテーゼは「良い」という語を用いるときわれわれは何について語っていることになるのかの本性に関して、強烈でしかも驚くべきことを述べているからである。

3.3.3 Problems and Prospects

実際、そもそも行為者相対的価値なるものが存在するのかどうかは非常に議論の余地がある。行為者相対的目的論者は通常、行為者相対的価値・行為者中立的価値の区別に訴える。だが他の哲学者は、そうした区別を理論中立的な仕方で成し遂げた者は一人もいないとして異議を唱えてきた(Schroeder 2007)。さらに、たとえこうした区別が存在するとしても、行為者に相対化された「良い」は制約のすべての直観的なケースを扱うのに十分ではない。というのも常識的に、たとえ「あなたが将来二人を殺す」というのを避けるためでさえ、あなたは一人を殺さないべきだからだ。こうしたケースを扱うためには、「良い」は行為者に相対化される必要があるだけでなく、時間にも相対化される必要があるだろう(Brook 1991)。そのうえ、英語のgoodという語は文脈依存的な仕方で行為者相対的価値について主張するために用いられるという見解に対して、さらなる困難の源が現れている。この見解は文脈依存性の日常のテストに合格しないし、しかもこの見解はその支持者が要求する文の読みをつねに生成するとは限らないのだ。

所感

  • 価値主張、端的な良さ、相対的な良さ、属性的な良さの区別は大変よろしい。
    • 伝統的な「良さ」の議論は、価値主張や端的な良さにばかり目を向けている点があまりにも奇妙。
    • 相対的な良さのみを認め、端的な良さは相対的な良さの特殊事例にすぎないと論じていくのが最も説得力があるように思われる。
    • 一方で、フットなどは属性的な良さを基礎的な概念として論じていこうとしているっぽい。
  • goodではなくbetterを基礎に置く立場はないのか。経済学における選好概念などはまさにそうしているが、倫理学においてはどうか。
  • 意思決定理論では、goodでなくbetterを基礎に置き(良さは比較でしか語れない)、さらに相対的な良さを基礎に置いている(良さは誰にとっての良さかを明示してのみ語りうる)と言えそう。
  • betterを基礎に置いた場合、選好論理では「Aであることは良い」のような端的な良さは「AであることはAでないよりも良い」のようにAと¬Aとの比較が隠れているとして分析することがあったと思う。SEPのPreferencesの項目にもそんなことが書いてある。

文献

  • Schroeder, Mark, “Value Theory”, The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2016 Edition), Edward N. Zalta (ed.).

  1. tan line「日焼けライン」。人間の皮膚において、日焼けした部分と日焼けしていない部分の境界が作りだす線。 ↩︎

  2. disvalueを「負の価値」と訳した。 ↩︎

  3. 原文だと分かりづらいが、おそらくは「あなたが一人を殺せば、二人が誰かに殺されるのを避けることができる。そんな状況で、あなたは一人を殺すべきか」みたいな話になっていると思われる。 ↩︎

2018年3月1日
2021年8月14日
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