序――虚構的対象の存在の謎
論理学者にとって虚構名はつねに悩みの種であった。「ペガサスは有翼の馬である」という文は真であると思われる。だが、この文を真であると認めてしまうと、困難が生ずる。「ペガサスは有翼の馬である」ということから、「有翼の馬であるものが存在する」という偽なる文が論理的に導けてしまうからである。
ペガサスは有翼の馬である。Fa
∴有翼の馬であるものが存在する。∃xFx
ここで用いられているのは、存在汎化と呼ばれる推論規則にほかならない。存在汎化とは、単称命題(固有名を主語とする文)から特称命題(存在性を主張する文)を導いてよいという論理法則である。「吾輩は猫である。ゆえに猫であるものが存在する」など、存在汎化の適用例を見れば、存在汎化の正しさは明らかであるように思われる。
以上をまとめるとこうだ1。
- 「ペガサスは有翼の馬である」という文は正しい。
- 存在汎化も正しい。
- それにもかかわらず、「ペガサスは有翼の馬である」に存在汎化を適用すると、「有翼の馬であるものが存在する」という間違った結論が得られてしまう。
虚構名を含む文はさまざまなものが考えられる。虚構理論の成否に関係すると思われるものを以下に列挙しておこう。
- ホームズは棚から褐色の分厚い本を取りだした。[小説内の文]
- ホームズは生涯結婚しなかった。[読者や批評家の文]
- ホームズは存在しない。[哲学者による文]
- ホームズは工藤新一よりも賢い。[貫虚構用法]
- ホームズはドイルによって創造されたキャラクターである。[虚構性に言及する文]
- 「私は虚構のキャラクターにすぎない」とホームズは言った。ホームズは、自分がドイルによって創造された単なる架空の人物にすぎぬことを知っていた。[メタフィクションにおける文、つまり虚構内で虚構性に言及する文]
- 「私は虚構のキャラクターにすぎない」というホームズの言明は正しい。[虚構内で虚構性に言及する文に対する批評家の文]
記述理論(ラッセル)
ラッセルによれば、単称名辞(確定記述2や固有名)は論理的単位ではない3。「フランス国王は禿である」の論理構造は、Baではなく、∃x(Fx∧Kx∧∀y((Fy∧Ky→x=y)∧Bx)であるとされる(「フランスの国王であってしかも禿であるような者が存在し、しかもフランスの国王なるものは存在するとすればただ一人存在する」)。
この分析を適用すれば、「ペガサスは有翼の馬である」は偽となるから、パラドックスを回避することができる。
クワインによれば、「ペガサス」に対応する記述がすぐには見つからない場合、「ペガサスる(pegasizes)」といった人工的な述語を作ってしまえばよい4。
三浦によれば、ここで注意すべきことが三つある。
①記述理論では、実体、個物、特殊者としてのハムレットは存在しないことになる。しかし普遍者としてハムレットが存在すると認めることはできそうだ。よって、理論的実体説や種類説を許容する余地が記述理論にはある。
②曖昧な文S「虚構のなかでハムレットは男性である」は二通りに読める。
- SA「ハムレットは、〈虚構において男性である〉という性質を持つ」
- SB「虚構において、〈ハムレットは男性である〉ということが成り立つ」
前者はde re命題、後者はde dicto命題の区別に相当する5。三浦によれば、ラッセルはSBを真だと認めるはずであり、記述理論において何らかの形で虚構的対象が存在すると言える余地がある(どのような形でかは諸説が分岐しうる)。ラッセルの非公式的見解は代入的量化説に近い。しかし論理的に考えれば、記述理論はde dicto説を許容しうる余地がある。
③「これ」「あれ」「ここ」のような指示詞のみが本当の固有名だという、ラッセルの「論理的固有名」の議論は、物理主義の考えに通ずるものがある。
擬装主張説(サール)
意味とは「表現を指示に用いるための規則・習慣・規約の集合である」。言語表現のタイプ(指示句や文そのもの)が意味を担い、言語表現の具体的使用が指示を担う。こう考えるストローソンにとって、「フランス国王は禿である」は有意味ではあるが、真でも偽でもない。この文の使用において、フランス国王の存在はただ語用論的に前提されているだけであり、意味論的に含意してはいないのである。
小説内の文は、指示のふりをしているにすぎない。ストローソンと同様、サールにおいても、作品中の文は主張ではなくそのふりであるゆえに、真でも偽でもないことになる。
しかしサールによれば、指示のふりによっていったんキャラクターが創造されれば、キャラクターは本当に現実世界に存在するようになり、われわれはキャラクターを指示できるようになる。よって批評家による文は真たりうる。
だが、この場合キャラクターはいかなる存在者なのか、肝心なところは不明なままだ6。
還元主義(ライル)
還元主義は言語説の一種である。まず、虚構言説は次のように分類されうるであろう。
- ディケンズが『ピックウィック・ペーパーズ』に書く命題。
- 「ピックウィック氏はロチェスターを訪れた」のような読者による命題。
- 「ピックウィック氏は想像上の対象である」のような哲学者による命題。
ライルによれば、1.は真でも偽でもない(サールと同じ)。
2.は「『ピックウィック・ペーパーズ』には〈ピックウィック氏はロチェスターを訪れた〉もしくはそれを含意する命題が書かれている」のように読まれるか、もしくは「『ピックウィック・ペーパーズ』に書かれていることが真であれば、ピックウィックという名で、これこれのクラブを主催して、……、ロチェスターを訪れたような人物がいることになるだろう」のように読まれることになる7。
3.は「『ピックウィック氏はニセ指示句である」とパラフレーズされる。
ヴァン・インワーゲンによれば、どんな場合にも上のようなパラフレーズができるかは大いに疑問である。
- 19世紀の小説中のキャラクターには、18世紀のいかなる小説中のキャラクターよりも詳しい身体描写がなされているものがある。$\exists x(C_{19}x \land \forall y (C_{18}x\to Bxy))$
- 18世紀のいかなる小説中の女性キャラクターであれ、より詳しい身体描写がなされている19世紀のキャラクターがいるものである。$\forall x ((C_{18}x \land Wx) \to \exists y (C_{19}y\land Byx))$
ふつうに考えれば、前者から後者が論理的に導出できるはずである。しかしライル流のパラフレーズを施してしまうと、前者から後者が導けないことになってしまい、不合理である8。
マイノング主義(パーソンズ)
マイノング主義者は、「存在する」と「ある」を区別する。マイノング主義とは、どんな指示句に対しても必ず対象があるという考えである。「ペガサス」「丸い四角」「黄金の山」のような非存在者も、存在はしないがあることになる。
しかしラッセルはマイノング主義にこう反論する。「存在する黄金の山」という指示句を考えよ。黄金の山は現に存在しない、よって存在する黄金の山というものはない。しかしその意味からして「存在する黄金の山」は存在していなければならない。これは矛盾律に反するから不合理である910。
このラッセルの反論に対してパーソンズが取る戦略は、核述語と核外述語との区別を明確化するというものである。
核述語
「青い」「背が高い」「ソクラテスを蹴る」「ソクラテスに蹴られる」「誰かを蹴る」「黄金である」
核外述語
存在論的:「存在する」「神話的である」「虚構的である」、様相的:「可能である」「不可能である」、志向的:「マイノングによって考えられる」「誰かによって崇拝される」、技術的:「完全である」
どんな核性質も以下の条件を満たさない。つまり、性質FがSと**S'**のどちらかを満たすならば、Fは核外性質である11。
- S ∃X (Xは核性質の集合∧F∉X∧∀x(xはXのすべての要素を持つ→xはFを持つ))\
- S' ∃X (Xは核性質の集合∧F∉X∧∀x(xはXのすべての要素を持つ→xはFを持たない))
対象とは、核性質の集合と一対一に対応するもののことである(パーソンズによる定義)。{P, Q}≠{P, Q, P∧Q}であるから、{P, Q}と{P, Q, P∧Q}はそれぞれ別の対象を表すことになる。実在する対象はどれも論理的に閉じている12が、一般にはそうではないのだ。
さて核性質と核外性質との区別により、「存在する黄金の山」は存在しないのみならず、ありもしないことが言えることになる。こうしてラッセルの反論は退けられる。
パーソンズは核外性質Pの希釈版である核性質pなる概念を導入する。「任意の実在の対象xに対し、xがPを持つ ⇔ xがpを持つ」とき、pはPの希釈された核性質であると言う。この概念を用いれば、文字通りあらゆる対象をこの世界のメンバーとして迎え入れられる。こうして「存在する黄金の山」という指示句も、それが有意味である以上、存在しないがやはりあると言えることになる。
しばしばマイノング主義の最大の難点と見做されているのが、実在と非実在との関係をうまく扱えないという点である。これに対するパーソンズの解法は、核関係に非対称性を導入することである。存在物は非存在物と関係を持つことはできないが、非存在物は存在物と関係を持つことができると考えるのである。
しかし三浦によれば、さらに多くの難点が指摘できる。
- キャラクターの創造という事実を適切に扱えるのかやや疑問である。
- 作品内で区別できないキャラクターを理論的に区別することができない。
- 核外性質のみが付与されたキャラクターの場合、また、まったく同じ核性質を持つ二つのキャラクターが与えられた場合、どうするのか。
けっきょくマイノング主義は、「存在」と「ある」とを弁別するという存在論的にヘビーなコストを支払った割には、形式的に複雑な構成を取らざるを得ない点に難点があると言えよう。
文献
- 三浦俊彦『虚構世界の存在論』勁草書房、1995年。
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存在汎化でなく述定原理に訴えてパラドックスを定式化することもできる。述定原理とは、「『aはFである』が真であるならば、aは存在する」という原理である(推論規則ではない)。述定原理によれば、「ペガサスは有翼の馬である」ということから、「ペガサスが存在する」ということが言えてしまう。かくして述定原理によっても同様のパラドックスが生ずる。 ↩︎
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確定記述とは、the kingのように定冠詞がついた名詞句のこと。 ↩︎
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もともとラッセルは素朴な実在論的意味論を信奉していた。これは、どんな語も指示対象を持ち、それによってこそ語は意味を持つとする考えである(何でもかんでも存在することを認める点で、マイノングにも近い考え)。しかしこの考えでは、「a man」のように文脈によって異なる指示対象を持ちうる語をどう解釈するか、「現在のフランス国王」のような指示対象を持たないと考えられる名詞句をどう理解するかといった問題が生ずる。この問題を解決すべくラッセルは、「a man」は概念〈a man〉を指示し、そして概念〈a man〉は何らかの一人の男(たとえばジョーンズ)を表示するのだ、という「表示の理論」を一度は構築する。だがこれは意味の機構の説明としては複雑で、すっきりしない。そこでラッセルは、素朴な実在論的意味論をあくまで擁護する方向ですっきりした意味論を手に入れるべく、記述理論を考案することになった。記述理論の眼目は、問題の解決を意味論のレベルで行なうのではなく、構文論のレベルで行なうというものである。 ↩︎
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ラッセルとしては、ある個人が「ペガサス」という語を適当に使うことができている以上、その個人は何らかの記述を「ペガサス」に付与しているはずであり、それが「ペガサス」の意味にほかならない。したがって、クワインと違ってラッセルにとっては、「ペガサス」という語を一意的に特定する客観的記述を見つける必要はない。「ペガサス」の意味は、人によっては「有翼の馬である」だったり、また別の人によっては「虚構論の文脈でよく引き合いに出されるギリシア神話上の生物である」だったりする、ということでよい。 ↩︎
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(□F)aのように、個体aに対して□Fという様相がかかっている場合がde re様相(事物様相)。□(Fa)のように、文全体に様相がかかっている場合がde dicto様相(言表様相)。量化表現と併せて考えると理解しやすい。∃x(□Fx)だとde re様相、□(∃xFx)だとde dicto様相。 ↩︎
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「指示のふりによってキャラクターが創造される」のはどういう仕組みによってなのか。個人的にはこの点も気になる。 ↩︎
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2.の二番目のパラフレーズは、「『ピックウィック・ペーパーズ』に書かれていることが真であれば、ピックウィック氏はロチェスターを訪れた」では駄目なのであろうか。もっともこれでは虚構言説と反事実的条件文を同一視することになり、やや不自然かもしれない。(追記)ライルの示すパラフレーズのほうが妥当な理由がわかった。要するに、反事実的条件文の後件を存在言明として書いておかないと、虚構名の謎を解いたことにならないということなのであろう。 ↩︎
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ヴァン・インワーゲンの挙げる例は貫虚構用法であり、また「キャラクター」という語を含んでいる。ヴァン・インワーゲンはその論理的関係を問題視するが、しかしそもそも還元主義のやりかたで貫虚構用法や「キャラクター」という語を含む虚構言説はどうやって扱いうるのであろうか。 ↩︎
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つまりマイノング主義は、存在汎化あるいは述定原理を認めないというやりかたでパラドックスを解消しようとする。 ↩︎
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「存在する黄金の山」を記述理論ではどうパラフレーズするのであろうか。 ↩︎
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論理学の枠組みで考えれば、核述語とはFやGなどのふつうの述語のことであり、核外述語とは∃や□などの演算子のことだと言えるかもしれない。ここで、∃は二階述語とも言われることに注意されたい。ときどき誤解する人がいるが、∃xFxは「あるxが存在する。そしてそのxはFである」と読み下すべきでない。せめて「あるxが存在し、xはFである」と読むべきである。自然な日本語にするならば「Fであるようなものがある」となる。何が言いたいかというと、∃…とは「……であるようなものがある」という述語、いわば「述語を取る述語」なのであり、この意味で「二階」の述語なのである。 ↩︎
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数学において、ある集合がある性質について閉じているとは、その集合の要素に対して演算を施した結果が再び元の集合に属することを言う。自然数全体の成す集合は、加法について閉じているが減法について閉じていない。したがって、ある集合が論理的に閉じているとは、その集合から論理的に導出しうることはすべてその集合にすでに属しているという意味になる。 ↩︎