以下、スタンフォード哲学百科事典の「Transworld Identity」の項目の適当な抄訳。
貫世界同一性の概念は、一つ以上の可能世界に同じ対象が存在するという概念である。
貫世界同一性という主題はきわめて異論が多い。異なる可能世界間での同一性という概念は問題がありすぎて到底受け入れがたいという意見もあれば、貫世界同一性という概念はまったく無害であって、ある個体が別の性質を持って存在することもありえたという主張が問題含みではないのと同じくらい問題がない、とする意見もある。「貫世界同一性」への重要なライバルとして、デイヴィッド・ルイスの対応者理論があるという事実が、問題を複雑にしている。対応者理論によれば、一つの個体は一つの可能世界にしか存在せず、他の可能世界にはその対応者が存在しているのだが、対象とその対応者との関係は同一性関係ではない。したがって、この分野の議論の多くは、貫世界同一性と対応者理論的説明とのどちらの解釈が優れているのか、その優劣を比較するということが主題となる。
貫世界同一性とは何か
なぜ貫世界同一性を考える必要があるのか
可能世界意味論の枠組みによれば、次のように言える。「紫色の牛が存在することもありえた」=「紫色の牛が存在するような可能世界が少なくとも一つある」。「丸い四角は存在しえない」=「丸い四角が存在するような可能世界はない」。
この枠組みを個体についての言明に拡張するとどうなるか(可能世界意味論の枠組みで事象様相を取り扱おうとしてみるわけである)。すると、事象様相文は、「ある可能世界に存在する個体と、別の可能世界に存在する個体とが同一である」ということを含意することが分かる。
「可能世界間の同一性」のことを「貫世界同一性」と言う。「世界間同一性(interworld identity)」とか「貫様相同一性(transmodal identity)」と言ってもよい。
貫世界同一性と可能世界の概念
貫世界同一性があると言うことは、異なる二つの可能世界のなかに同じ対象が存在する(同じ対象が複数の可能世界において存在する)と言うことに等しい。
現実の個体が別の可能世界にも存在するという言明は意味をなすのだろうか。これを知るためには、可能世界とは何か、そして可能世界に個体が存在するとはどういうことかを知る必要がある。
可能世界を真剣に受け取るならば、その性質は様々なものが考えられる。デイヴィッド・ルイスは、現実世界以外の可能世界は別の宇宙のようなものであり、われわれの世界とは時空的に隔絶したものとして存在するとした。可能世界に存在する物体は、現実世界において存在するのと同じくらいリアルに存在する。ルイスによれば、現実世界と可能世界とで客観的な差異は存在しない。「現実世界」と言うときの「現実」とは、「今」とか「ここ」のような指標詞に過ぎないのであって、特別な存在論的地位を意味するものではないのである。
ルイスの「急進的実在論者」の説明では、ある個体が別の可能世界にも存在するというのは、シャム双生児のごとく、二つの世界に跨って存在するということである1。しかしこれは問題含みである。クローバーという牛が三本足でもありえたとすると、クローバーは結局七本足ということになるのだろうか(現実世界のクローバーが四本足、可能世界でのクローバーが三本足、合計七本足)。
クローバーは、四本足部分を現実世界で持ち、三本足部分を可能世界で持つ、と考える立場がある。これは八木沢の立場である。これによれば、具体的な存在者は皆、空間的・時間的・様相的な段階から成ることになる。形而上学的には、時間的・空間的段階と様相的段階とは同格である(ある時空間に存在するということと、ある可能世界に存在するということとは同等である)(この見かたは時間における同一性の説明の一つである「持続主義(perdurance)」2の様相版3である)。したがって、クローバーは、四本足の様相的段階と、三本足の様相的段階を持つことになる(クローバーは四本足であるわけでも三本足であるわけでもない)。
「急進的実在論者」のもう一つの選択肢は、性質を可能世界に相対化することである(普通われわれが単項述語だと思っているものは、実は世界をも項として取る二項述語であるとする)。クローバーは、現実世界に関して四本足を持ち、ある可能世界に関して三本足を持つ。マクダニエルがこの立場。時間に関する同一性の議論では三次元主義というのがあるが、これの様相版である4。
ルイスはこれらの選択肢を共に拒否する。「現実世界で四本足を持つ」という性質はどの可能世界でも成り立つので、偶有的な性質だったはずのものが本質的な性質ということになってしまって不合理である(?)。
そこでルイスは貫世界同一性を否定し、対応者理論を支持する。
しかし、ルイス的実在論だけが可能世界を理解する唯一の手段ではない。可能世界を、極大な可能的事態(世界がそうあったかもしれないしかた)のような抽象的対象として捉える方法もある。
可能世界を抽象的対象として扱うことは、問題を悪化させるだけのように思われるかもしれない。確かに、具体者たるわれわれが抽象的対象の一部であったかもしれないという想像をすることは難しい。しかし「ある可能世界において存在する」という言葉をルイス的実在論とは異なる意味で解釈すればどうか。例えばプランティンガは次のような解釈を提案している。「ジョージ・エリオットは科学者であることもできた」は「ある極大可能事態が存在し、もしそれが真であったならばエリオットは科学者であったろう」となる。この説明では、エリオットが異なる可能世界に何人も存在するといった想定をせずに済み、ルイス的実在論の欠点を回避することができる(なお、現実世界は諸可能世界の一つであるので、現実世界もまた極大可能事態であることになる。四次元的な実体としての現実世界は具体者だが、可能世界の一つとしての現実世界は抽象者である。抽象者としての現実世界は、インスタンスを持つ可能世界だということになる)。
これまでの議論から、貫世界同一性の概念が問題含みかどうかは、可能世界をルイス型で捉えるか(この場合問題含みとなる)、プランティンガ型で捉えるか(この場合問題ないことになる)に依存することが示唆されたかもしれない。しかし問題はそれほど単純ではないとする議論の余地がある。
貫世界同一性とライプニッツの法則
事象様相文の解釈として貫世界同一性を用いることについては、明白な反論が存在するように思われる。「$A=B \iff A$の性質は$B$の性質である」というライプニッツの法則である。言い換えれば、AとBがまったく同じ性質を持つことが示されれば、AとBとは同一であることが示されたことになる。「ラッセルは哲学者でなく脚本家でありえた」と言うとき、可能世界におけるラッセルは脚本家なのだから、現実世界の哲学者ラッセルと同一人物であることなどありえないのではないか。
この反論に対しては次のように適切に応答しうることが一般に受け入れられている。ラッセルは1873年には未婚であり、1950年には既婚であったが、これはライプニッツの法則と矛盾していない。ライプニッツの法則は、「どの時点でも、AとBとの性質は異ならない」ことを要求するものだと考えられる。様相に応用すれば、ライプニッツの法則は「$A=B$であるとは、AとBとの性質が異なるような(一個の)可能世界がないということだ」と言える。
ただしルイスはこの解決策に反論している。
「貫世界同一性の問題」は擬似問題か
1960年代から1970年代にかけて、貫世界同一性の問題は疑似問題かどうかということが議論された。
この論争の中心とされるいわゆる問題を突き止めることは難しい。特に、貫世界同一性の問題は疑似問題だとする人々は明らかにルイス型の様相実在論を標的としていたにもかかわらず、「もしルイス型実在論を採用したならば貫世界同一性の問題が生ずる」というテーゼへの反論を彼らは試みなかった。貫世界同一性の問題は疑似問題だとする人々が、実際になされた反論に対してではなく想定されうる反論に対して応答していたという事実によって、問題は複雑になる。しかし中心的な問題の一つは、貫世界同一性の事例があるという主張が貫世界同一性の基準によって裏づけられる必要があるかどうかということであった。だがもしそうだったのだとすれば、なぜそうだったのだろうか。
「同一性の基準」という語は曖昧である。認識論的な意味では、同一性言明が真であるかどうかを見分ける基準のことである。形而上学的な意味では、同一性言明が真であるための必要十分条件のことである。後者の意味での基準が前者の基準を与えることはありうるが、そうでないこともありうる。
貫世界同一性の問題は疑似問題だとする議論のうち最も影響力があるのはおそらくプランティンガおよびクリプキのものであろう。プランティンガとクリプキは、貫世界同一性の問題は真性の問題だとする人々は三つの仮定のうち少なくとも一つに依存している。第一の仮定は、世界間における個体の同一性を解明するためには貫世界同一性の基準を持っていなければならないというもの。第二は、他の可能世界における個体を指示するのに失敗しないのであれば、貫世界同一性の基準を持っていなければならないというもの。第三は、貫世界同一性の言明を理解するためには貫世界同一性の基準を持っていなければならないというものである。プランティンガとクリプキは、これらの仮定には根拠がなく、したがって貫世界同一性の問題は疑似問題だと主張する。
- 認識論的仮定:エリオットが他の可能世界に存在するのであれば、可能世界内の個体のどれがエリオットであるかを見分ける基準を持っていなければならない。
- 「指示の保証」の仮定:「ラッセルは脚本家でありえた」と言うときわれわれは確かに他ならぬラッセルについて語っていると知るためには、貫世界同一性の基準が必要である。
- 「理解度」の仮定:「エリオットが科学者であるような可能世界がある」という言明を理解するためにはエリオットの貫世界同一性の基準が必要である。
認識論的仮定への反論
認識論的仮定は、「エリオットの貫世界同一性の基準を持っているとすれば、他の可能世界からエリオットを見つけ出す基準を持っていることになる。逆に貫世界同一性の基準を持っていないならば、エリオットを見つけ出すことはできないだろう」ということを含意するように思われる。しかしこの仮定は混乱の産物ではあるまいか。エリオットの貫世界同一性の基準を持っているならば他の可能世界で誰がエリオットかを観察によって見分けることができる、というのは棄却すべき空想上のアイディアである。貫世界同一性の基準はそもそも認識論的に用いることのできるものではないのである。
ニクソンが外国に行ったかもしれないし行っていないかもしれないとする。他国へニクソンを探しに行っても、ニクソンの性質によってはニクソンを見分けられない。ニクソンっぽい人は見つけられるかもしれないが、ニクソンであるということを観察することはできない。(この段落はよく分からなかった。)
「指示の保証」の仮定への反論
「ラッセルは脚本家でありえた」=「ある可能世界でラッセルは脚本家である」と言うとき、現実世界と同じラッセルについて語っているとどうして言えるのか。ムーアやウィリアムズについて語っていないとどうして言えるのか。他の可能世界におけるラッセルについて語るためには、ラッセルを指示していることを保証するための貫世界同一性の基準が必要ではないのか。クリプキによれば、貫世界同一性は必要ない。われわれは単純に、当該の個体はラッセルであると規約することができるからである。
時制の場合を考えるとよい。「メルケルが赤ちゃんだったとき」と語るとき、その赤ちゃんがメルケルその人であると言えるのは、そういう取り決めをしているからである。様相の場合もこれと同じである。
「理解度」の仮定への反論
貫世界同一性の基準が必要だという主張の三つめの根拠は次のものである。――「エリオットは科学者でありえた」という言明を理解するためには、「他の可能世界のある科学者がエリオットであるためには何が必要か」を知っていなければならない。しかしこの要求は不当ではなかろうか。
第一に、「メルケルが赤ちゃんだったとき……」という主張を理解するためには、ある赤ちゃんがメルケルであるための基準を知っていなければならないということは疑わしい。第二に、「ある可能世界でエリオットは科学者である」という主張を理解するためには、「エリオットは科学者であったかもしれない」という主張をわれわれはすでに理解しているという事実があればよい。
以上、三つの反論に対する応答を見てきたが、これらの応答が妥当だったとしても、まだ貫世界同一性の基準が不必要だということまでは言えない。次の第四の主張は生き残りうるからである。
この主張が生き残っていることの証拠は、少なくとも二点挙げられる。第一に、同一性基準を知らなくとも貫世界的言明を行なうことはできるが、だからといって同一性基準が存在しないことにはならない(時制の場合を考えてみよ。貫時間的な同一性の基準はやはり必要であろう)。第二に、規約することで指示の保証を得るという行為は、「指示対象がラッセルであるための必要十分条件を満たすように暗黙理に規約しているというわけではない」ことを含意しない(つまり、話者は暗黙理にラッセルの必要十分条件が存在することを規約している可能性はある。たとえ話者がその必要十分条件を述べることができない場合においてさえその可能性はある)。
この第二の点は、もしラッセルに本質的性質があるならば、ラッセルが脚本家であるような可能世界について語っていると規約することは、ラッセルの本質を持つようなある人物が脚本家であるような可能世界について語っていると(少なくとも暗黙理のうちに)規約することにほかならない、という観察の拡張である。
したがって、たとえ事象様相文を言うために個体の必要十分条件を特定する必要がなかったとしても、そのような必要十分条件が存在することはありうる。
さてしかし、もし上の三つの反論が再反論によって潰されたのだとしたら、貫世界同一性は個体の必要十分条件を要求するということを保持する積極的な理由は何だろうか。
個体本質と裸の同一性
貫世界同一性は個体本質を要求するという見解に対する主要な論法は、可能世界間の「裸の同一性」を避けるためには個体本質が必要であるというものである。裸の同一性は、事象様相文を貫世界同一性に基づいて特徴づけるのには高すぎる代償であると見做されることがある。もしそれが正しいのであれば、そして個体本質に代わるもっともらしい代案がないならば、貫世界同一性に関する深刻な問題が確かにあることになる。
すなわち個体本質なるものがない限り、われわれはいくつかの個体の同一性だけが違うような可能世界が存在することを認めねばならぬ危険に晒されることになる。