道徳的虚構主義対その他(Moral Fictionalism versus the Rest)
序
われわれの日常的な道徳概念に答えるためには、道徳はどのようでなければならないだろうか。「女性の陰門封鎖は悪い」「われわれは飢餓救済にお金を寄付すべきだ」「他人を傷つけるべからず」といった道徳的主張をするとき、われわれは何にコミットしているのか。多くのことにコミットしているように思われる。少なくとも以下のことをわれわれは前提としている。
第一に、道徳的事実の領域が存在する。そのような事実に照らして、「女性の陰門封鎖は悪い」は真であり「無意味に残虐な行為は正しい」は偽であるとされる。そのような事実はあるし、それについて信念を抱くことができる。さらに、そのような事実は発見されるものである。発見可能な道徳的事実があるという前提こそが、道徳的議論の目的と本性を説明する。
第二に、道徳的事実は客観的事実である。われわれの感じ方・考え方によらずに、道徳的事実の真偽は決定される。
第三に、これらの客観的事実は、指令的な力・動機づけの力を持たなければならない。
これらの仮定は、よく知られた問題にわれわれを導く。この分析が正しければ、道徳的事実はきわめて奇妙な種類の事実であることになる。このような存在論的な問題は、次の認識論的な問題に対応する――われわれはいかにしてこの奇妙な、非自然的な客観的で指令的な事実についての知識に達しうるのか?
問題は次の点にある。すなわち、われわれの道徳話法(moral talk)は事実上、実在論的で認識論的であるにもかかわらず、道徳話法が前提していると思われる存在論は、奇妙で非自然的でムーア的である、という点である。そのような奇妙な事実というものは存在しないはずであるので、結局われわれは道徳について語るのをやめるべきであるということになる。道徳話法は常に偽であるしかないのであるから。
かかる消去主義は、支払う代償があまりに大きいと思われる。道徳言説はきわめて役立つからである。
われわれは、怪しげなムーア的存在論にコミットせず、しかも道徳言説を維持したい。非認知主義はそれを可能にする。しかし、非認知主義だと、われわれの実在論的な語り方を否定することになり、これはこれで奇妙である。
しかし代替案が存在する。道徳話法は実在論的な語り方をしており、かつ偽であり、しかもそのような実在論的道徳話法は有用であるがゆえに維持すべきであるとする立場である。その結果が、道徳言説に関する虚構主義(または道徳的虚構主義)である。
本稿でわれわれは、まず一般に虚構主義というものを概観する。この背景に対して、われわれは道徳的虚構主義を探求し、なぜ虚構主義が反実在論・準実在論のアプローチよりも優れているのかを示唆する。
第一節で、虚構主義に入門する。第二節で、道徳的虚構主義を定義する。第三節で、反実在論・準実在論との比較を行なう。第四節で、道徳的虚構主義に独自な問題点について議論する。
虚構主義入門
ある言説における最も単純な虚構主義のアプローチは、その言説におけるある主張を文字通りには偽であることを受け入れるが、しかしある文脈においてそう主張する価値はある、なぜならばそのような主張は真だという振りをすることは理論的目的にとって価値があるからである、とする。ニヒリストや錯誤理論的アプローチと異なり、虚構主義者は、当該主張をやめるべきとは言わない。
模範的な例であるフィクションは、虚構主義者にとって常に魅力的である。ホビットの物語は偽であると知っていてさえ、その物語にコミットしているように思われることを言うことは有益であることにわれわれは気づく。遊びや文芸批評にとって有用なだけでなく、教訓を引き出すといった実用的な目的のためにも有用である。虚構主義の態度を理解する出発点は、このようなフィクションに関する虚構主義にある。
言われたことを額面通りに受け取りがち分野においては、虚構主義はより興味深くより議論の余地があるものになる。例えばハートリー・フィールドの数学の虚構主義。それによれば、数学は有用な虚構である。世界から情報を受け取って、虚構を介して、また世界についての結論を得る、という構造になっている。
この構造は、古典的な用語を使うとこう説明できる。字義通りに解釈して問題のない理論を「基礎言説(base discourse)」と呼ぶ。「虚構」は文字通り取ると偽であるが有用な理論である。「仲介原理(bridge principles)」は基礎言説と虚構とをつなぐ。仲介原理は普通、条件法ないし双条件法である。例えば「xは5メートルである ⇔ 虚構によれば、xは5メートルの長さを持つ」。後者は「長さ」の存在にコミットしている。
虚構言説を基礎言説に追加するときには注意が必要である。基礎言説が十分に豊かであれば、単純に虚構言説を基礎言説へと(仲介則を利用して)追加するべきではない。というのもその追加は矛盾するかもしれないからだ。もし虚構主義を言語で述べることができるならば、基礎言説は「基礎言説における主張は偽である」と言うだろう。これらは基礎言説の主張である。したがって虚構を追加することは矛盾をもたらす。[…]新しい存在論を仮定するような虚構に対しては、われわれは新しい述語(Eのような存在述語)を導入して基礎言説を守る。このように守りながらの追加をするとき、「結合(conbining)」と言う語を使うことにしよう。
フィールドにとって、虚構主義の戦略は有用である。というのも虚構を通じてのこの回り道は、基礎言説に戻ってくるときには、偽の混合物を残さないだろうからである。フィールドによれば、物理学言語での言明だけから得られる帰結の集合と、物理学言語での言明+数学の公理+仲介則から得られる帰結の集合とは、論理的に等しい。
フィールドは、なぜわれわれがそのような保存的拡張を利用するのかについても答えを与えている。数学がなければ物理学の帰結を出すのが面倒で困難になるからである。つまり数学を利用するのは、われわれは数学なしでやっていくことができないからではなく、数学が最も便利なショートカットだからである。フィールドの仕事はまだ成熟の段階に至っていないが、しかし虚構を利用することの有用性を説明する一つの例ではある。
もし虚構が真理についての論理的な保存的拡張になっているのであれば、われわれは安全の保証を得たことになる。しかししばしば、保存的拡張になっているかの保証が得られないことがあるし、最初のコミットメントだけに還元することが困難な場合もある。なぜ人は理論的虚構を利用することがあるのかについてのよく知られた例は、観察不可能な物理学的対象についてのファン・フラーセンの態度によって与えられている。観察可能な現象についての予測をするためといった目的のために、あたかも観察不能な物理学的対象が存在するかのように扱うべきであると、ファン・フラーセンは言う(本当に存在するのかどうかは分からない、とファン・フラーセンは考える。不可知論者の立場)。われわれの用語法で言えば、ファン・フラーセンは観察不能な物理学的対象に関する虚構主義者なのである。
フィールドと同様に、ファン・フラーセンは基礎言説(字義通りに解釈すべき言説)、仲介則(理論と基礎言説とを結びつけるルール)、虚構(観察不能な対象について語る科学理論)という区別を受け入れうる。
文献
- Nolan, Daniel, Greg Restall, and Caroline West. “Moral fictionalism versus the rest.” Australasian Journal of Philosophy 83.3 (2005): 307–330.