1. Introduction
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メタ規範理論1は、一つには、「ought」の意味に関わるものである(道徳的な意味での「ought」に限定はしない)。むろん他の規範語も存在するが、「ought」(≒should)は明らかに、数少ない核となる規範語のうちの一つである。
395b
多くの哲学者は次の考えを魅力的だと考える――規範的主張(ought-claims)は可能な行為、思考、感情を指令するものであって、現実世界で実際に物事がどうあるかを記述するものではない。
395c
一方、叙述文の意味は、その文の真理条件がいかにその文の要素の意味論的値とその文の論理形式から導出されるかによって最もよく説明される、という考えがある。これは上の考えと衝突するような考えだ。規範文は叙述文のなかに埋め込まれうるので、この場合、規範文に真理値が付与できないと叙述文の意味を説明できないのである。
396a
反実在論的なメタ規範的描像では通常、規範文は真理適合的でない、とする。
あるいは、規範文は「デフレ的な意味」でのみ真理条件をもつとする。この意味での真理条件は、意味の実質的な説明には役立たない。[*imcompatible without reliance… あたりが構文がわからず]
これが、真理条件的意味論と反実在論的メタ規範理論とが衝突する理由。
396b
しかし、この考えが直面する困難を過小評価しないことが重要だ。
真理条件的意味論はもっともらしい。多くの哲学者が、規範文に真理値を付与すべきだと考えたくなる理由はこれである(しかもデフレ的な意味での真理値ではなく)。
396c
以上のことは、次の二者択一を迫るように見える。
- 真理条件的意味論を用いるのをやめて、別の意味論で文の意味を説明するという困難な仕事を受け入れる(真理条件的意味論の拒否)。
- 規範文は現実を描写していると考える(実在論)。
しかし、この二者択一だというのは本当か。本稿では、この二つの選択肢以外もありうることを示す。本稿の流れは以下の通り。
- 規範文の意味論的規則の特定のバージョンを説明する(クラッツァー理論の説明)。
- 真理条件的意味論の結果を解釈する二つの仕方を説明する。表象主義(representationalism)と推論主義(inferentialism)。これらはメタ意味論における立場である。どちらの立場も、真理条件的意味論と反実在論とをともに認めうる。
- 観念論者(ideationalist)のテーゼについて議論する。このテーゼによれば、文はまずもってわれわれの思考を表出するための乗り物であり、文の真理条件はその文の慣習的な表出能力から来る。これは表出主義者にとって魅力的なテーゼ。推論主義との比較を通じて説明するつもり。
2. ‘Ought’ and Truth Conditions
397b, 398a
「ought」には様々な意味合い(flavor)がある。それらを(語の意味の多義性によって説明するのではなく)統一的に説明しうる意味解釈として、クラッツァーの意味解釈がある。
(様相規則) $[\![\mathrm{ought}~p]\!]^{fg} = \top \iff$任意の$w\in W_{fg}$に対して$w\in p$
398b
メタ倫理学者は、「ought」を義務、適切性(fittingness)、理由といった語に還元するような伝統的な分析を提案する誘惑に駆られるかもしれない。
しかし、「ought」の様々な意味合いを体系的に扱いうる上の様相規則の能力は印象的な妙技である、ということをわれわれは認識すべきだ。疑いなくその妙技は、「ought」の意味を義務、適切性、理由、最良のもの、といった語によって分析するやり方では達成できないだろう。なお、ought概念は義務・適切性・理由などの概念と構造的に結びついているかどうかという問題は、「ought」の真理条件とは別個の問題である。
399a
しかし、この様相規則の支持者も、「ought」の意味と義務・適切性・理由などの概念とを結びつけるやり方から学ぶべきところはある。ought文は、行為者に何かをするよう要求するものであると思われる。ギーチの言うように、 “John beats up Tom” と “Tom is beaten up by John” は命題として同値であるのに “John ought to beat up Tom” と “Tom ought to be beaten up by John” とは同じ意味ではないのだ。[*つまり、規範文の標準理論は行為者性を扱えていない。]
この指摘を考慮した場合、様相規則を棄却するのではなく、むしろ命令文の意味論と統合することによって、様相規則を改良すべきだと私は考える。というのも、「S ought to φ」と言うことは、「S φ!」という命令を下すことに近いと思われるからだ。
399b
われわれは様相規則をいかに改良しうるだろうか。
宣言的内容(decrelative content, = proposition)と同じく、命令的内容(imperative content)にも評価点(points of evaluation)に相対的な意味論的値を付与することができるだろう。
宣言的内容の場合、評価点は可能世界であると想定され、意味論的値は真理値とされる。可能世界は様々に解釈しうる(具体的な宇宙、現実世界がどのようでありうるかの抽象化、命題の集合、などと解釈される)。
命令的内容の場合、一つの方法としては、評価点は可能規範(possible norm)、意味論的値は適切/不適切(legitimate/illegitimate)とする方法がある。可能規範は様々に解釈しうる(可能な行為に対する具体的な法則、行為者がいかに行為しうるかの抽象化、一般的指令の集合、などと解釈される)。[*可能規範というのがいまいちよくわからず。]
400a
命令的内容に真理値でなく適切値をあてがう方法は、真理条件意味論に統合することができる。
(改良した様相規則) $[\![\mathrm{ought}~p]\!]^{fg} = \top \iff$任意の$\braket{w,n}\in P_{fg}$に対して$\braket{w,n}\in p$
pは、宣言文で表現されるような命題に限らず、命令文で表現されるような指令であってもよい。このようなpは、世界・規範の順序対の集合(規範と相対的に指令が適切であるような世界の集合)によってモデル化できる2。こうすれば、pが命題的でも指令的でも、同じ意味論で扱うことができる。pが命題の場合は〈w, n〉のうちnは特に仕事しない。pが指令の場合、nは本質的に意味がある。
401a
この規則によれば、ギーチの指摘した問題点を克服できる。 “John, beat up Tom!” と “Tom, be beaten up by John!” とは、それぞれ或る規範に対して適切かどうかの基準が違う点で、区別しうる。
この意味論では命題的ought文と指令的ought文とを同じやりかたで扱ってはいるが、それでもわれわれは命題的ought文・指令的ought文の意味論的な差異を認識することができる。
401b
上の意味論はむろん不備もあり、さらなる修正が必要であることは私も承知している。しかしこれ以上正確な意味論を作ることはしない。本稿の目的は、この意味論をいかに解釈すべきかを考えることだからだ。
改良版様相規則に対する二つの解釈を探索することによって、真理条件意味論と反実在論とは二者択一の立場ではないということを理解することができるだろう。
3. Truth Conditions as Ways Reality Could Be
401c
真理条件意味論とは、その文が真であるためには世界がどのようでなければならないかを説明するようなものだ、という考えがある。これは(私の好みの用語法では)、真理条件の表象主義的説明(a representationalist explanation)と呼ぶことができる。
疑いなく、これはメタ倫理学における実在論や錯誤説の核となる仮定である。自然主義・非自然主義の対立、成功説・錯誤説の対立も、この基盤のうえで生じる。
402a
真理条件の表象主義が蔓延していることにより、規範文は命題的文脈に埋め込まれうるにもかかわらず、規範文は真理条件をもたないという考えが広く受け入れられてきた。
402b
以下で私は、この考えを拒否する方法があることを示すつもりだ。
しかしそうする前に、なぜoughtに関するメタ規範的状況は事態を複雑化していると私が考えているかを説明したい。その状況においては、徹底した表象主義者でさえ、規範的言語は指令的であるという考えを受け入れることができる。
403a
事態が複雑となっている理由はこうだ。表象主義の考えを受け入れてもなお、「現実がどうあるか」を記述しているのではない宣言文が存在する。つまり内包演算子がついた文だ。例えば、次の文。
- (8) Jack and Mary might be in the house.
内包演算子がついた文は、現実世界とは異なる参照点によって評価される(可能世界の存在に訴えて真理条件が与えられる)。
重要なのは、次のメタ意味論的な疑問――これらの真理条件に対する表出主義者の説明とはどういうものか? 自然な説明は、確かに文は存在するものとしての現実を表象するが、現実とは何も実際の事実に限られない、というものだ。つまりこの文は現実世界ではなく可能世界において物事がどうあるかを記述している(現実世界と可能世界との関係を表象することを含んでいる)。
したがって、可能世界の存在論を仮定するならば、われわれは「すべての宣言文は現実がどうありうるかを表象するものだ」と考え続けることができる。しかし同時にわれわれは、「すべての宣言文は実際に物事がどうあるかを記述している」というのを否定することができる。したがって、標準的な真理条件意味論に対する表象主義的解釈において、might文は「物事が実際にどうあるか」の単なる記述ではない。
4. Application to ‘Ought’
404a
文献
- Chrisman, Matthew. “Metanormative theory and the meaning of deontic modals.” Deontic Modality (2016): 395–430.