本論文は、著者の長年に渡る義務論理への関わりの要約を含む。その関わりは、技術的な観点から、およびより広い哲学的な観点からのものである。義務論理の形式的な側面に関係している限り、著者は自身の知的展開として、一方では(義務概念と)様相概念との、他方では(義務概念と)量化子とのアナロジーの最初の発見から、二項義務概念の体系的理論の形式化を経て、義務論理の基礎としての行為の形式論理の提案までを描く。より哲学的な文脈では、規範が真理値をもたないとすれば義務論理はそもそも成立可能なのかという問題、古典義務論理の記述的解釈と規範命題の論理との関係、条件付き規範・仮定付き規範の正しい定式化、道徳的義務と実践的必然性との区別、許可と義務の相互定義可能性、といった問題に関して著者は議論する。
1.
26a–c
私は約半世紀に渡って義務論理に関わってきた。義務論理に関わるのはこれで最後だとこれまで何度も論文で言ってきたが、哲学的論理学における最も問題含みの分野と私には思われるこの義務論理の未解決問題の挑戦を受け、私はまたも義務論理に戻ってくることになった。
本稿では、私自身の義務論理への貢献という幾分か自己中心的な観点から見た義務論理の発展を、大雑把に概観することにする。
2.
26d
アリストテレス以来、義務・許可・禁止のあいだの論理的関係が知られている。これを初めて体系化したのはライプニッツである1。ライプニッツは可能性と不確実性(not necessity)を様相概念の基礎として扱っている点が興味深い[現代の見方と真逆]。義務論理の観点からすれば、義務概念のほうが基礎として自然であるように思われるだろう。
27a–b
1924年にエルンスト・マリーが Grundgesetze des Sollens を刊行。ライプニッツへの言及はなし。
マリーの仕事はほとんど反響がなかった。しかし1930年代後半から1940年代前半にかけて、規範の論理や命令の論理はそもそも可能なのかということが議論された。特に、二人のデンマーク人が注目に値する[なお、二人とも法哲学者]。一人はヨルゲン・ヨルゲンセンで、「ヨルゲンセンのジレンマ」の名付け親だ。もう一人はアルフ・ロスで、ロスのパラドックスの提唱者だ。これらジレンマないしパラドックスは、現代でも未だ活発に論じられるトピックとなっている。
27c
1951年、私の論文 “Deontic Logic” が発表された。一年後、オスカー・ベッカーの Untersuchungen über den Modalkalkül が刊行され、さらに翌年、カリノフスキーの論文 “Theories des propositions normatives” が発表された。これら独立した刊行物により、「義務論理」なる分野が確立された。どの著者も、様相概念と義務概念とのアナロジーを用いていた。
その後ベッカーは義務論理の研究を続けず、私とカリノフスキーは最近まで続けてきた。ただし私もカリノフスキーも、「メインストリーム」の展開からは遠ざかっていった。
3.
27d–28a
先行研究もないのにどうやって私は義務論理を発見したのか、読者には興味のあることだろう。
帰納論理と確率論に関する仕事の後、私は述語論理の論理的真理と決定問題の研究に取り組んだ。ある日ケム川のほとりを散歩中、私は量化子と様相概念とのアナロジーに気づき、述語論理の研究に戻る前にこのアナロジーについて熱心に探求した(ただしこのアナロジーについては、ルカシェヴィッツやC・I・ルイス、アリストテレスといった先行研究がある)。また今度は友人との議論によって規範概念と量化子・様相概念とのアナロジーにも偶然気づき、 “Deontic Logic” という論文にまとめた。
論理的真理と決定問題という主題に戻る用意はできたが、そうする気になれなかった。しかしこの無関心は長続きしなかった。
4.
28b–c
論文 “Deontic Logic” に対しては二つの批判が寄せられた。一つはアーサー・プライアーのもので、いわゆる derived obligation の問題を指摘するもの。プライアーは、義務論理には命題論理や様相論理におけるのと同様の含意のパラドックスが生じるということを指摘する。これに対処すべく私は、相対的許可(relative permission)という新たな概念を導入した(相対的義務・相対的禁止も同様に導入)。相対的許可は記号で P(p/q) と表され、「qであるならばpは許される」を意味する。数年後、私とは独立にニコラス・レッシャーが二項義務論理を提案している。
29a–c
二項義務論理の発想は様相論理にも適用しうると考え、私は論文を書いた(ただし二項様相論理のアプローチは後に棄却することになったが)。一貫して私は許可を基本的な概念として用い、また無条件的様相は条件付き様相の特別な場合として考えた。
二項義務論理は未だ多くの論理学者に用いられているが、二項義務論理が、一項義務論理では捉えられないような構造を満足いく仕方で捉えられるのかどうかは、私には分からない。
An Essay in Deontic Logic and General Theory of Action で、私の二項義務論理の仕事は頂点および結論に達した。六つの体系に応じて二項義務概念の体系的な多様性を解釈した(このアイディアは、私の知る限り後続の研究が為されていないが、まだ発展の見込みがあるように思われる)。また free choice permission の概念を導入した(これは標準的な義務概念では捉えられないものである)。 free choice permission をどう形式化するかという問題は現在でも未解決である。
5.
p、qのような変項は、人間の行為か、もしくは人間の行為の結果として得られる状況かのどちらかとして解釈される。例えばOpは、「人は窓を閉じるべきだ」とか「窓が閉じられるべきだ」などと解釈される。前者はTun-Sollen(ought to do)、後者はSein-Sollen(ought to be)と呼ばれる。
私は最初はTun-Sollenを採用していたが、形式的問題や限界があった。そこでアラン・アンダーソンやアーサー・プライアーはSein-Sollenの概念を採用した。Sein-Sollenはすぐに標準となり、私もこれに従った。
この二つの概念については13節で再び論ずる。
6.
pは「窓が閉まっている」を意味するものとする。この状態は二つの異なる行為の結果でありうる。第一は、「開いている窓を閉じる」という行為、第二は「閉まっている窓が開かないようにする」という行為である。
これら二つの行為は異なる「義務論的地位」をもちうる。窓を閉じることは義務でも、窓を開かせないよう妨げることは禁ずる、という状況はありえよう。それゆえ、規範の論理は、行為の論理によって補完されねばならない。
『規範と行動の論理学』2において私は最初に行為論理の構築を試みた。その後、他の論理学者の努力によって多くのさらなる発展があった。私自身の後の貢献としては、 “Action Logic as a Basis for Deontic Logic” がある。
行為論理の構築は、形式的義務論理の発展に対する私の唯一の大きな貢献である。行為論理は、これまでの形式的研究にはなかったものである(あえて探すとすれば中世のスコラ論理学)。
物事や状況が静的であるのに対して、変化は、動的な論理学的概念である。私はこの点に新規性があると思っていたが、今からするとその重要性を強調しすぎていたかもしれない。
7.
本稿の残りは、義務論理の哲学的側面を明らかにする。義務論理の哲学的側面はこの分野の研究者のあいだであまり議論されてこなかった。
哲学的伝統においては規範や価値は、文化依存的で、主観的で、相対的であるばかりでなく、真偽のないものでもある、と見做されている。そのような哲学的伝統のなかで私は教育を受けた。ヘーガーシュトレーム、ケルゼン、ウェスターマークは私にとってガイド役であり英雄であった。彼らによれば、規範は、真でも偽でもない。
しかし、規範が真理値をもたないのであれば、矛盾や論理的帰結といった関係をどう得ればよいのだろうか。当初は、形式的体系さえ作れれば、それが論理学の需要を満たすのに必要なものすべてだと思っていた。
8.
規範文は二つの仕方で用いられる。規範を与える目的と、規範を記述する目的とである。つまり、指令的に用いる用い方と、記述的に用いる用い方とがある。前者は真理値をもたず、後者はもつ。前者は規範を表し、後者は規範命題(norm-proposition)を表す。
規範文のこうした曖昧性を最初に指摘したのは、スウェーデン人哲学者の Ingemar Hedenius である。
すると次の疑問が浮かぶ――義務論理は規範の論理ではなく規範命題の論理なのだろうか。『規範と行動の論理学』では、後者の解釈を選んだ。しかし義務論理の公理や定理はやはり規範そのものの性質を反映しているように思われる。そこで私は、義務論理は規範の論理であると同時に規範命題の論理でもあると考えたが、これは明らかに満足のゆく立場ではなかった。
9.
義務論理を記述的に解釈したとき、義務論理は規範についての真理を捉えているのか。もし捉えているとしたら、その真理は論理的なものだろうか、それとも経験的なものだろうか。
古典的な義務論理では、次が論理的真理となる。
- Pp∨O¬p(どんな命題も許されているか禁止されているかのどちらかだ)
- これは完備(complete)だとか、「ギャップレス」だとか言われる性質。
- ¬(Op∧O¬p)(義務同士が衝突することはない)
- ¬(Op∧P¬p)(義務と衝突するようなことが許容されることはない)
- これらは無矛盾(consistent)だとか、衝突自由(contradiction-free)だとか言われる性質。
現実の規範は確かにこれらの性質を満たしうるし、満たすことが望ましいように思われる。しかしこれらの性質が論理的真理かと言われると、そうではないだろう。現実の規範、例えば法律は、ギャップがあるし矛盾もある。それゆえ、古典的な義務論理は(それを記述的に解釈するならば)規範命題の論理的真理を捉えることができていない、ということになる。このことを明確に認識した実績は、カルロス・アルチョウロンに帰せられる。アルチョウロンは、規範の論理とは対立するような規範命題の論理を最初に考案した。
10.
法哲学者のなかには、「規範‐論理必然的な(of norm-logical necessity)」規範の秩序は完備で無矛盾だ、と主張する者もある。ハンス・ケルゼンはその一人だ。しかしこの意見は、法体系はしばしば完備でも無矛盾でもないという経験的事実の観点からすると、支持しがたい。
しかし、完備かつ無矛盾な法体系が望ましいことは確かである。そこで、完備性と無矛盾性をメタ規範的な原理(高階の規範)と見做しうる。すると次のように表現できる3。
- O(Pp∨O¬p)
- O(¬(Op∧O¬p))
- O(¬(Op∧P¬p))
これらにもやはり、記述的解釈と指令的解釈とがある。
11.
規範が真理値をもたないとするとき、規範間の矛盾・論理的帰結といった概念にどのような意味を与えればよいのか。以下のように考えればよいと思う。
- 規範の集合が無矛盾である ⇔ 規範によって義務であるとされるすべての状態の連言に、規範によって許可されているとされる状態のいずれか一つをその連言に加えた状態が、実行可能な状態である(人間の行為によって達成しうる)。
実行可能性(doability)の基準は行為論理によって規定される。こうすると、「OpかつO¬p」とか「OpかつP¬p」のような二つの規範が矛盾していることを言える。「両方が同時に真になれない」という意味で矛盾だと言うことはできないが、二つの規範を同時に発することが非合理的だという意味で矛盾だと言えるだろう。
「Op↔P¬p」や「Pp↔O¬p」が成り立つといった観察から、論理的帰結の定義を考えることができる。
- 規範の集合Γがφを帰結する ⇔ Γ∪{¬φ} が矛盾する。
例えばOpはPpを帰結する。なぜなら {Op, ¬Pp} すなわち {Op, O¬p} は矛盾しているから。
規範的無矛盾性・規範的帰結の定義は、規範内容の実行可能性および規範付与行為の合理性といった概念に依拠している。これらの概念は、純粋かつ古典的な論理において居場所がない。このことから、やはり規範には論理がないのだと考えることもできるが、逆に、論理とは真理概念がないところにも成立しうると考えることもできる。どちらの考えが妥当かは読者に委ねよう。
12.
条件付き義務に関する問題。最初の論文では O(p→q) が正しいとしていた。もう一つの選択肢は p→Oq である(チザムの提案による)。義務論理学者の多くは p→Oq が正しいと考えているが、私は今も O(p→q) が正しいと考えている。その理由は以下。
「φすると約束したならばφせねばならない」という義務を考える。これを O(p→q) とすると、分離(detachment)の問題が生じるので、やはり p→Oq のほうがよい、と思われるかもしれない。しかし、約束履行の義務は有史以来存在してきたものであり、約束したときに初めて課せられてくる義務なのではない。道徳共同体のすべてのメンバーは、端から、「約束しないかもしくは約束したことを守るか、のどちらかであるべき」という義務を課せられているのである。約束したことで生じてくる新たな状況は、新たに義務が生じたということではなく、約束を守るためにせねばならないという実践的必然性(practical necessity)に過ぎない。[*面白い論点]
「約束は守らねばならない」という規範それ自体は真理値をもたないが、「φせねばならない」という実践的必然性は真理値をもつ。φすると約束したという事実と、約束は守らねばならないという規範の存在によって、実践的必然性を述べる文は真である。[*規範と規範命題との区別と似ているが、同じ区別なのか違う区別なのか]
13.
上の区別は、Sein-Sollen と Tun-Sollen の区別と結びつけることができる(それぞれ、ought to be と ought to be done に相当)。話半分に聞いてほしいが、規範は Sein-Sollen であり、実践的必然性は Tun-Sollen であるかもしれない(完全に同値であると言うわけではないが)。
5節で述べたように、最初に義務論理の構築を企てた際には、ought-to-do の論理を考えていた(この区別にはあまり注意を払っていなかったが)。しかし、形式的に簡便だという理由で、すぐに ought-to-be の論理を採用するに至った。そして私やその他の人は、当初、ought-to-be の論理は ought-to-do を包含すると考えていた。Op は「彼は窓を閉めるべきだ」とも「窓は彼によって閉められるべきだ」とも解釈でき、この意味では ought-to-be と ought-to-do は交換可能だからだ。しかしこれは、この二つの概念の区別を消し去ってしまうものではある。
14.
規範の哲学の問題児は許可の概念である。私は当初、許可の概念を義務論理の原始概念としていたが、すぐに義務概念を原始概念とするのが一般的となった。そのほうがより自然であることに私は同意する。しかしこれは、許可の概念に関する問題を避けて通る方法でもあった。許可の概念に関する問題は議論に値する。
許可と禁止の関係はどうなっているのか。許可とは禁止の欠落にほかならないのかどうか。禁止はO¬pで定義できるので、もし許可が禁止で定義できるのであれば、許可は義務で定義できることになる(逆に、義務を許可で定義できるということにもなる)。すなわち、Pp≔¬O¬p、そして Op≔¬P¬p とすればよい(相互定義可能性テーゼ)。これは今日に至るまで多くの義務論理学者に受け入れられている。しかし、『規範と行動の論理学』において私はこれを否定した。それ以来、私は、OとPをともに原始概念として相互定義可能性を否定してきた。
相互定義可能性テーゼは、規範と規範命題との混同に基づくものである。規範的(指令的)には、p が義務でないことは ¬p が許可されていることであり、また p が許可されていないことは ¬p が義務であること(= p が禁止されていること)である。しかし、記述的には、義務でないことは許可されていることと同じではないし、許可されていないことは禁止されていることと同じではない。規範的には¬PとO¬は同じ意味であり、¬OとP¬は同じ意味である。しかし記述的には、Pp↔¬O¬p や Op↔¬P¬p は論理的真理ではないのである(9節参照)。
では、許可を与える行為とはどういう行為なのか。それは、「両手を縛る」行為である。つまり、ある種の約束であり、言い換えれば「あなたはこれをすることに関して自由であり、私はそれを邪魔しないつもりだ」と言うことである。許可を与える者は禁止事項を自分自身に課しているのだ、と言ってもよい。
このことから、規範の権威者(norm-authority)には、O¬(Pp∧O¬p) という二階の義務が課せられてくることが分かる。PpとO¬pの両方を指令したら矛盾を招いてしまう。許可を与える行為と、無矛盾な規範を与える行為とは、関連している。このような見方は、許可が何であるのかをよりよく理解する手助けになるものと私は思っている。
所感
二項義務論理
- 二項義務論理はどこまで有用な体系なのか。そもそも条件付き義務がうまく扱えないのは条件文がうまく扱えないからで、とりわけ撤回可能推論がうまく扱えないからであろう。二項義務論理を研究するよりも撤回可能推論について研究するほうが有望そうに思われるが、どうなのか。二項義務論理と撤回可能性との関係はどうなっているのか。
行為論理
- フォン・ウリクトの行為論理は現在どれほど真剣に研究されているのか(彼の行為論理と、他の行為論理との関係は気になるし、それらのあいだの形式的性質の差異を研究するのは有意義かもしれない)。フォン・ウリクトの行為論理と行為論との関係も気になる。形式意味論での行為の取り扱いも気になるところ。【追記】ベルナップら(2001)は、現代的な観点からフォン・ウリクトやデイヴィドソンの行為論理をきちんと取り上げているようだ。
規範と規範命題との区別
- 規範と規範命題との区別、という話はメタ倫理学的には興味深い。しかし本当にこのような区別が可能なのか。というか、この区別をすることで何をしたことになるのか。
- まず、「規範の論理」と「規範命題の論理」を区別するというのはかなり奇妙に思える。というのも論理とは命題に適用されるものであるから、規範命題の論理と区別されるような規範の論理、などというものがありうるようには思えないからだ。
- 規範を与える言語行為と、所与の規範を記述する言語行為とは、確かに区別しうるかもしれない。しかし後者はもはや「Aであるべきだ」と言うことで成立する言語行為なのかどうか怪しい。むしろ「(この共同体では)Aであるべきだということになっている」「Aであるべきだとされている」と言うことで成立する言語行為なのではないか。
- 規範命題の論理において、「Aであるべきだ」という規範命題の真理条件は「Aであるべきだ」という規範が成立しているときだということになるのであろうか。しかしこれだと、メタ倫理学的には実在論にコミットすることになり、規範を命令のようなものと考える立場と矛盾しないかという感じがしなくもない。もっとも、ファン・フラーセンの義務論理はわりとこういう発想な気がする。あるいはまた、「命令という言語行為が成功したとき、規範が社会的事実として成立する」というような、オースティン‐サール的な発想が根底にあるのであろうか(規範を与える行為には実在論的な根拠はないが、規範を記述する行為には実在論的な根拠があるとする)。そう考えていくと、山田の動的義務論理は、フォン・ウリクトの義務論理の正統な継承者と言えるのかもしれない。
文献
- von Wright, Georg Henrik. “Deontic logic: A personal view.” Ratio juris 12.1 (1999): 26–38.