哲学覚書

道徳的推論の覚書

道徳的推論は誰かの利益に基づいて為される一方で、道徳的推論は典型的には、何を道徳的に為すべきかという行為者の一人称的な(個人的・集合的どちらもありうる)実践的推論である。道徳的推論の哲学的考察は二つの独特なパズルに直面している。そのパズルは、われわれはいかに道徳的考慮事項を認識しそれらのあいだの衝突に対処するのか、そしてそれらはいかにわれわれを行為へと導くのか、についてのものである。そして道徳的推論の哲学的考察は、何を為すべきかについての洞察を、何を為すべきかについてどう推論するかということから収集する独特な良い機会に直面している。[英単語の覚書……distinctive は「独特な」という意味であり、「区別される distinguished」という意味ではないので注意]

本稿の第一部では、道徳的推論をより十分に特徴づけ、道徳性が要求するものの一階の説明および道徳性の形而上学の哲学的説明に関連づけて道徳的推論を位置づけ、このトピックの関心を説明する。第二部では、道徳的推論に関する一連の哲学的諸問題を取り上げ、それを理解し位置づける。

1. The Philosophical Importance of Moral Reasoning

1.1 Defining “Moral Reasoning”

本稿では道徳的推論を実践的推論の一種と見做す。つまり、何を為すべきかを決定するような推論であり、それが成功すれば、意図が生じるようなもの、の一種と見做す。むろんわれわれは道徳性が何を要求しているのかを理論的に推論しもするが、倫理に関する純粋に理論的な推論の性質は倫理学の様々な文献において十分に議論されている。ある理解においては、何を為すべきかを決定するような道徳的推論は、人は道徳的に何を為すべきかについての判断の形成を含んでいる。こうした理解において、人は道徳的に何を為すべきかと問うことは実践的な問題でありうる(1.5節参照)。道徳的推論に関する哲学的見解のすべての範囲を公平に評価するためには、何を道徳的問題と見做すかの広い理解が必要となる。例えば、道徳的推論の重要な点は関連する考慮は成文化不可能であるということなので、もしここで「道徳性」を成文化可能な原理・規則として定義するならばわれわれは論点を避けてしまうことになろう。現在の目的にとって、何が正しい・間違いであるか、何が有徳・悪徳であるかという問題を、道徳的問題として理解することができる。

日常生活において道徳的問題が明示的に現れるときでさえ、われわれはしばしば衝動的・本能的に行為する。サルトルは、第二次世界大戦でパリが占領されたとき、学生が訪れて母親の看病をすべきか自由フランス軍に参加すべきか尋ねたというエピソードを記している(Sartre 1975)。これはおそらく道徳的問題であり、この若者はサルトルの助言を待った。このことは、この若者が実践的問題について推論していることを意味するだろうか。必ずしもそうではない。実際、サルトルはこのエピソードを用いて、こうした実践的問題を推論によって対処することは不可能だと説明している。ではしかし、推論とは何か。

ここで議論される類の推論は、能動的・明示的な思考である。そこにおいて推論者は、推論の評価によって責任をもって導かれる(Kolodny 2005)し、合理性のいかなる適切な要求の評価によっても責任をもって導かれる(Broome 2009, 2013)。そうした推論者は十全に定義された(well-defined)問題に対する十全に支持された答えに達しようとする(Hieronymi 2013)。サルトルの学生にとって、少なくともそのような[十分に定義された]問題は生じていた。実際、問題は比較的明確であり、学生はすでに様々な選択肢について内省していた。そのプロセスは、実践的推論の重要な局面として記述されてきたものであり、決心する努力に適切に先立っている(Harman 1986, 2)。

推論を、責任をもって行なわれた思考として特徴づけるのは、むろんこの概念の十分な分析になってはいない。例えば、推論(reasoning)と推理(inference)との関係という切迫した問題を対処できない(Harman 1986, Broome 2009)。加えて、「何を為すべきかについての意図を定式化することは実践的推論を成立させるのに十分かどうか」とか「そうした意図は行為を開始することによらずには十分に計画され得ないのかどうか」といった問題を解決できない。多分人は、石壁をどうやって修理すべきかとか利用できる材料だけでどうやってオムレツを作るべきかといった問題を、実際に修理したり料理したりすることなく十分に推論することはできない(cf. Fernandez 2016)。しかし、上のような推論の特徴づけは、目下の目的には使えるだろう。それは、推論が思考の規範を含むということを明確にするのには十分である。実践的思考における適切さ・正しさの規範は、一つの規定の道に沿って考えることを要求しないが、しかしある種の道たちのみを許すものではある(Broome 2013, 219)。たとえそうであっても、われわれは間違いなくその道に従うことに失敗する。

1.3 Situating Moral Reasoning

道徳的推論という主題は、規範倫理学(道徳的理論に関する学)・メタ倫理学(道徳的事実に関する学)の双方に関わる

道徳的推論という主題は二つの領域にまたがっている。一つは、もし道徳的真理が存在するとすればそれは何かという、一階の問題である。例えば、道徳の真なる一般原理は存在するかとか、それはどういうものか、といった問題。このレベルでは、功利主義はカント主義と対立し、また功利主義・カント主義のどちらもが反理論主義(道徳については個別の真理しかない)と対立する(Clarke & Simpson 1989)。もう一つは、道徳的真理の、もしくは道徳的真理など存在しないという主張の、形而上学的基礎を与える探求における問題である。道徳的真理が存在するならば、何がそれを真にしているのか。道徳的懐疑主義や道徳的相対主義の問題もここに生じるし、あるいはここで、非懐疑主義的な道徳形而上学を擁護すべく「理由」概念が用いられる(e.g., Smith 2013)。道徳的推論という主題がこれら二つの領域にまたがるのは次の単純な意味においてである。道徳的推論をする者は、何が道徳的に真であると思われるかによって動くが、何が道徳的信念を真にするのかと問うことなく、その考慮の観点からして何を為すべきかを責任をもって明らかにしようと試みる。道徳的推論の哲学的研究はそれ自体、これら試みの性質に関係している。

道徳的推論、道徳的事実、道徳的理論は相互に関連している

これら三つの主題は明らかに相互に関連している[三つの主題というのは、道徳的推論・道徳的事実・道徳的理論のこと]。考えられる限り、それらの関係は、道徳的推論の主題におけるいかなる独立の関心も排除してしまうほどに狭い。例えば、もし道徳的推論について有益に言えることのすべてが道徳的事実に注意を払うことだけであるという場合、すべての関心は何が道徳的事実かという問題に帰着することになる(McNaughton 1988)。代わりに、道徳的推論は単に、通常の演繹的・経験的推論を通じて正しい道徳理論を適用することであるとも考えられる。さらには、それが真なのであれば、人の十分な目標は正しい道徳理論を見出し非道徳的事実を正しく理解することとなるだろう。しかし、これらの極端な還元はいずれももっともらしくはない。まず、事実を正しく理解するために、潜在的な還元を行なってみよう。[この後の内容――道徳的推論について考えなくてもよいのでは。結局、道徳的に正しいことを言うには、①道徳的事実を正しく認識すればいいだけではあるまいか、もしくは②正しく道徳理論を適用すればいいだけではあるまいか。こうした疑問に答えて、やっぱり道徳的推論について考えることは意義がある、という内容が続く]

「道徳的事実」派への応答

道徳的に関連する事実を正しく認識することの重要性を支持する現代の支持者は、この人が感染している、またはこの人が私の医療援助を必要としているなど、通常の感覚能力と通常の認識能力を使用して知覚できる事実に焦点を当てる傾向がある。そのような足場では、道徳的原則がすべての道徳的真実を支持しているという主張に反論する強力な議論を開始することができる(Dancy 1993)し、いかなる道徳的推論にも従事せずに本能的に(もしくはトレーニングの結果として)知覚する理由に基づいて行為することでわれわれは時に完璧に何を為すべきかを決定することができるという主張を支持する強力な議論を開始することができる[道徳の知覚説の人たちの直観はここにあるわけだ]。しかし、これは、道徳的事実に単に注意を払うだけではなく、道徳的推論は常に不要であると主張するための健全な基盤ではない。それどころか、われわれはしばしば、新たな困惑と道徳的衝突に直面する(そこにおいてはわれわれの道徳的認識はガイドとして不十分である)ことに気づく。例えば、社会が代理母契約を実施する必要があるかどうかを巡る道徳的問題に取り組む際に、関連する科学技術の新奇性は、われわれの道徳的認識を信頼できない不安定なガイドにする。個人の病気に気づいた医学研究者が、この個人のケアに(臨床的に)リソースを振り向けると、私の研究の進行が阻害され、この病気の将来の患者の長期的な健康チャンスを損なうという事実にも気づいたとき、彼女は相反する道徳的配慮に直面している。この時点で、通常の感覚能力と認識能力を使用して、何をすべきかがわかると言うだけでは、もっともらしくないし、満足できもしない。矛盾する考慮事項に直面したときそのような全体的な判断を生み出すような、道徳的直観の特別な能力を仮定することは、デウス・エクス・マキナ[複雑な状況を突然にまたは強引に解決する人]を駆使することである。それは、理解の目的に役立つよりもフィクションの目的に役立つ方法で、探求を短くする。代わりに、この点において道徳的推論が入ってくると仮定するほうがもっともらしい(Campbell & Kumar 2012)。

現在の目的にとって注目に値することだが、デイヴィッド・ヒュームや道徳感覚理論家は、このように道徳的推論の理解を短絡させるものとは見做されない。ヒュームは、特に人間性の論文において、特に実践的または道徳的な推論の不信心者として自分自身を提示することは事実である。しかし、そうすることで、彼は「推論」の非常に狭い定義を採用している(Hume 2000, Book I, Part iii, sect. ii)。これとは対照的に、現在の目的のために、私たちは「推論(reasoning)」をより広範な意味で使用している。これは、理性(reasoning)と情熱の相対的貢献を分析する野心によって制御されない。そして、この広い意味での道徳的推論については、人が為すべきことについて責任ある思考として、ヒュームは多くの興味深いことを述べている。それは、道徳的推論には、他の人々と遠い未来の主張(いわゆる「冷静な情熱」の助けを借りて達成される二重修正)から適切に構成される視点の二重修正(2.4節参照)が必要だという考えから始まっている。

「道徳的理論」派への応答

事実を正しく知覚することが道徳的推論を置き換える可能性から、道徳的推論は正しい道徳理論を適用することに尽きる(置き換えられる)可能性に転じる場合、懐疑的である理由が再びある。一つの理由は、道徳理論は真空状態では生じないということだ。むしろ、道徳理論は道徳的な確信の広い背景に対して発展する。 道徳的事実を認識することの重要性を強調する最初の潜在的に還元的なより糸が力をもっている限り――そしてそれはいくらかもっている――それは道徳的理論が広範囲の道徳的事実を体系化または説明することによって支持を得る必要があることも示す傾向がある(Sidgwick 1981)。 理論的な説明が求められる他のほとんどの分野にとって、説明の成功の程度は部分的であり、理論の改訂による改善の余地がある(2.6節参照)。 しかし、自然科学とは異なり、道徳理論は、ジョン・ロールズがかつて述べたように、「自己検査によって形作られた」行為に関する主題であるという点で「ソクラテス」的である努力である(Rawls 1971, 48f.)。この観察結果が正しければ、答えるために提示した道徳的な質問は、重要なことについてのわれわれの反省から生じることを示唆している。同様に(そしてこれが現在のポイントである)、道徳理論は覆される可能性がある。なぜなら、それは正当な熟慮においてわれわれが受け入れないような具体的な含意を生成するからだ。これにより、そして道徳的地形の大きな複雑さを認めることにより、すべての具体的な場合われわれが為すべきことに対する答えを生成するための、演繹的な方法で穏やかに自信を持って進むことができるような道徳理論を生成することはほとんどありそうにないと思われる。この結論は、道徳理論が道徳現象の複雑さに忠実である限り、それ自体の要素間の対立の多くの可能性をその中に含むという、二番目の考慮によって補強される。たとえいくつかの優先ルールを配備したとしても、これらはすべての不測の事態をカバーできるとは考えられない。したがって、正しい理論の演繹的な適用を超えた道徳的な推論が必要になるのである。

1.3節まとめ

要するに、道徳的推論の健全な理解は、道徳的理論や道徳的事実の考察に還元される形を取らないだろう。道徳的事実に注意を払う要求も、正しい道徳理論を適用する指令も、道徳的推論を語り尽くしたり、十分に説明したりするものではない。

1.4 Gaining Moral Insight from Studying Moral Reasoning

哲学的問題をそれ自体で提起することに加えて、道徳的推論は、道徳的事実と道徳的理論への影響のために興味深い。したがって、道徳的推論に注意を払うことは、具体的な道徳的問題に対する正しい答えを決定したり、道徳理論を賛成または反対したりすることに真の関心がある人にとってしばしば有用である。ある種の道徳的ジレンマを乗り越えようとする特徴的な方法は、これらの問題に対するわれわれの考慮されたアプローチについて明らかにすることと同じでありうる。さらに、何をすべきか疑わしい場合でも、特定のクラスの問題にどのように対処するのが最善であるかについて、確固とした反省的信念を持っている場合がある。そのような場合、われわれが特徴的に受け入れる道徳的推論の様式に注意を払うことは、われわれが出発する道徳情報の集合を有用に拡張し、競合する考慮事項を構造化する方法を提案する。

道徳的推理(inference)と道徳的推論(reasoning)の性質に関する事実は、道徳理論に重要な直接的な影響を与える可能性がある。例えば、道徳理論が自己理解と熟慮の努力において実践的に有用な役割を果たすということは、道徳理論の妥当性の条件であると考えられうる。道徳理論は熟慮指導的(deliveration-guiding)であるべきだ(Richardson 2018, §1.2)。この条件が受け入れられる場合、行為者が抽象的で難しい推論に従事することを必要とする道徳理論は、それゆえに不十分である可能性がある。J・S・ミル(1979)は、功利主義が要求する計算を一般的に行うことはできないことを認め、彼はそれを理解し、歴史の過程で経験がわれわれを十分に導く二次原則を生み出したという事実によって慰められるべきであると主張した。むしろ劇的に、R・M・ヘアは、理想的な情報に基づいた合理的な「大天使」の推論[論理的思考]を捉えるものとしての功利主義を擁護した(Hare 1981)。しかしむしろ、道徳理論にとっての熟慮指導性の必要性を真剣に考えると、われわれ「プロレタリア」による道徳的推論の努力をより直接的に教えてくれる理論が好まれることになるだろう。

したがって、道徳的推論、道徳的事実、道徳的理論の間の密接な関係は、道徳的推論を関心のあるトピックとして排除するものではない。それどころか、道徳的推論は道徳的事実と道徳理論について重要な意味をもっているため、これらの密接な関係は道徳的推論のトピックにさらなる関心を与える。

1.5 How Distinct is Moral Reasoning from Practical Reasoning in General?

最後の線引き問題は、「道徳的推論は本当に実践的推論と異なるものなのか」である。この問いに取り組む際、異なる道徳理論が異なる道徳的推論のモデルを提示している仕方を見過ごすことは難しい。

例えば、アリストテレスによれば、有徳な人の実践的推論と有徳でない人の実践的推論とで違うのは、推論の構造ではなく内容にすぎない。これに対して、カントによれば、自愛の思慮の(prudential)実践的推論は人の幸福の最大化を目的としているが、道徳的推論は格率の潜在的普遍化可能性に取り組むものである。アリストテレスとカントの中間の立場として、ヘアの功利主義的立場やアクィナスの自然法の立場がある。ヘアによれば、理想的な自愛の思慮を働かせる行為者がその選好に対して合理性の最大化をするのと同じように、理想的な道徳的行為者の推論はすべての人の選好の集合に対して合理性の最大化をする(Hare 1981)。アクィナスによれば、……。

このように、道徳的推論と、実践的推論ないし自愛の思慮の推論との関係についての立場は多様である。このことからして、確定された道徳理論の正しさを仮定することを嫌う道徳的推論の一般的説明は、道徳的推論と非道徳的な実践的推論とはどのように関係しているかという問いに関しては不可知論的であり続けるほうがよいであろう。

2. General Philosophical Questions about Moral Reasoning

確かに、道徳的推論の性質に取り組んだほとんどの偉大な哲学者は、正しい道徳的理論の内容については不可知論者ではなく、道徳的理論を支持する道徳的推論(あるいは道徳的理論から派生する道徳的推論)についての考察を発展させた。それにもかかわらず、道徳的推論の重要かつ議論の余地のある側面を巡って、道徳的理論の内容についてある程度無関係な現代の議論が生じている。これらを次の七つの疑問にまとめる。

  1. 道徳的推論において関連する考慮事項はどのように取り上げられるか。
  2. 原則に結晶化したものと見做されるような考慮事項は、道徳的推論にとって不可欠か。
  3. どの道徳的考慮事項が最も適切であるかをどのように整理するか。
  4. 動機づけの要素は道徳的推論をどのように形成するか。
  5. 道徳的推論で生じる考慮事項間の対立をモデル化する最良の方法は何か。
  6. 道徳的推論には、経験から学ぶことや心を変えることが含まれるか。
  7. どうすれば道徳的に、お互いに推論[議論]できるか。

本稿の残りの部分では、これらの七つの疑問を順番に取り上げる。

2.4 Moral Reasoning and Moral Psychology

われわれはここで、実践的推論の一種としての道徳的推論に関心をもっている。実践的推論は、もし成功すれば、意図を生み出す。しかし、いかにしてこうした実践的推論は成功しうるのか。いかにして道徳的推論は動機的に効力のある心的状態につながりうるのか。伝統的には意図と行為に関するこうした哲学的研究は「道徳心理学」と呼ばれてきた。道徳心理学は、伝統的なアプリオリな仕方と最近人気のある経験的な仕方の両方の仕方で、こうした問題に言うべきことが多くある。さらに、道徳心理学の結論は実質的な道徳的含意をもちうる。というのも、特定の種類の道徳的推論は実践的ではありえないという深い理由があるならば、そうした推論を要求するどんな原則も不適切だということになるからだ。この精神に則って、サミュエル・シェフラーは「人間の動機心理学のある程度現実的な理解についての道徳哲学の重要性」(Scheffler 1992, 8)を探求してきたし、ピーター・レイルトンはある道徳原則はある種の「疎外感」を生むかもしれないというアイディアを発展させてきた(Railton 1984)。要するに、われわれがある種の道徳的推論を心的に可能とするものは何かに関心をもつのは、それ自体が興味深いためでもあり、道徳理論の内容のいくつかを考え出す方法として有用であるためでもある。

心理学的可能性の問題は、すべての種類の実践的推論にとっても重要な問題である(cf. Audi 1989)。道徳性においては、とりわけ急を要する問題である。というのも道徳性はしばしば個人に対してその個人自身の関心を満たすことから離れることを要求するからだ。結果として、道徳的推論の実践的効果は、目標を達成するために必要な手段を選択すべしという要求と組み合わせて人の関心を形作る初期動機に単に訴えるだけでは説明できないように思われるだろう。道徳性はむしろ、主観的「動機群(motivational set)」(Williams 1981)の一部ではないかもしれないような目的のために行為するよう個人に要求するように思われるだろう。道徳的推論はいかにして人々をそうするよう導くのだろうか。この問いは伝統的なものである。プラトンの『国家』は、その外見は偽りであり、実際には道徳的に行為することは行為者の見識ある自己利益のうちにあると答えた。カントはまったく対照的に、実践法則の理解に基づいて行為するわれわれの超越的能力こそ、道徳性に従うことがわれわれの関心と激しく衝突するときでさえ、目的を設定し道徳性に従わせることをわれわれに可能にしてくれるのだ、と主張する。他にも多くの答えが提出されてきた。近年では、哲学者は道徳性に関するいわゆる「内在主義」を擁護してきた。内在主義は、行為者の道徳判断とその動機づけとのあいだには必然的で概念的な結びつきが存在すると主張する。例えばマイケル・スミスは内在主義の主張を次のように定式化する(Smith 1994, 61)。

もし行為者が状況Cにおいて「自分にとってφすることは正しい」と判断するならば、その行為者はCにおいてφするよう動機づけられるかもしくはその行為者は実践的に合理的ではないかだ。

道徳判断の内在主義のこの撤回可能なバージョンでさえ、強すぎるかもしれない。しかしこの問題をさらに追求する代わりに、われわれは道徳的推論により深く関わる問題に戻ることにしよう(道徳的判断の内在主義については、moral motivationの項目を参照のこと)。

われわれが今しがた一瞥してきたような伝統的な問題は、道徳的推論が行なわれるとき取り上げられる。伝統的な問題は、われわれに道徳的結論があるということは前提としたうえで、「いかにして行為者はそうするよう動機づけられるのか」と問う。[これに対して、]道徳的推論と道徳心理学の交錯に関する別の問題は、より内在的なものである。その問題は、動機づけの要素はいかにして推論過程それ自体を形成するのかというものだ。

ヒュームに端を発する、人間の心理学の強力な哲学的描像は、信念と欲求ははっきりと区別できる存在だと断言する(Hume 2000, Book II, part iii, sect. iii; cf. Smith 1994, 7)。これは、「信念を連結することによって働いているように見える推論が、いかにして欲求が与える動機づけと結びついているのか」という潜在的な問題がつねに存在することを意味している。模範となる結びつきは、道具的行為のそれである。すなわち、ψしたいという欲求と、状況Cにおいてφすることによってψが達成されるだろうという信念との結びつきである。したがって、本質的にヒューム主義的な信念・欲求の心理学のなかで道徳的推論を研究する哲学者は、しばしば道徳的推論の不自然な説明を受け入れてきた。ヒューム自身の説明が、その種の不自然さのよい例である。ヒュームの言うように、穏和な情念が道徳性を構成する視点の二重訂正を下支えする。これら穏和な情念は、本質的に同じ動機づけの貨幣制度におけるわれわれの他の情念と競合していると見做されるので、いわば、われわれの情念は道徳的推論の範囲を制限するのである。

ヒューム主義的道徳心理学の狭い理解から離れる重要なステップを踏むには、ロールズのいう「原則依存的欲求」(Rawls 1996, 82–83; Rawls 2000, 46–47)の存在を認識することが必要である。何らかの合理的ないし道徳的原理への参照なしには特徴づけることのできない対象に対する欲求がある。これらのうち重要で特別なケースは、「概念依存的欲求」である。これは、当該の原則依存的欲求がより広い概念に属しておりそのために重要であると行為者によって見做されるような欲求である(Rawls 1996, 83–84; Rawls 2000, 148–152)。例えば、ある人が自分を市民だと考えると、その人は社会の負担を公平に負担したいと思うかもしれない。ヒューム主義的な欲求概念「ψしたい」におけるψには、これ[公平に負担したい]も含め、任意の内容を代入しうるように見えるかもしれないけれども、そしてヒュームは自尊心などの道徳的感情が単純な心理的メカニズムによって説明されうることを示すことを目指したのだけれども、彼の影響力のある経験論は、実際には、欲求の可能な内容を制限する傾向にある。したがって原則依存的欲求の導入は、ヒューム主義心理学から離れることを示すように思われる。ロールズの言うように、もし「われわれが、正義と善の両方が表現する概念や理想に惹かれることに気づくならば、どうして人は、人々が思考や熟慮においてそれによって動かされ、したがってそれによって行為する可能性のあるものに制限をかけるべきなのだろうか」(1996, 85)。ロールズはこの論点をヒュームの道徳心理学とカントのそれとを比較することによって展開したが、同様の基本的な論点は新アリストテレス主義者によっても同じく為されている(e.g., McDowell 1998)。

原則依存的欲求を導入することは、その内容に対する任意の自然主義であるはずの制限を破裂させる。しかし、この概念は本質的にヒューム主義的描像に依然として恩義を受けすぎているため、道徳的コミットメントの概念を捉えることができない、と主張する哲学者もいる。欲求は、強さに基づいて競合する動機づけの要素であり続けているように思われる。人は正義への欲求よりも昇進への欲求のほうが上回るかもしれないと言うことは、人は正義へのコミットメントをもつという考えを捉え損ねるように思われる。「母親のもとで暮らすか自由フランスとともに戦うかで苦悩する学生」という例は、「学生は単にどちらの欲求が強いかによって何を為すべきか決定すればよいというのはもっともらしくないように思われる」ということを分からせるためにサルトルが提示した例だったのである。[そういえば、確かサルトルは「理論によっては解決できないような、真正な道徳的ジレンマというものがありうる」と主張していたのだった]

コミットメントの概念を理解する一つの方法は、何を望んでいるかについて反省するわれわれの能力を強調することである。この方法によれば、欲求の強さと「われわれが大事に思うものの重要性」とを区別することが可能である(Frankfurt 1988)。この考えは刺激的であるが、いかにしてわれわれが反省するのかについて比較的少ない洞察しか与えてくれない。コミットメントをモデル化する別の方法は、「意図は、欲求とは異なるレベルで機能し、熟慮における任意の時点でわれわれが何を再検討するつもりであるかを構造化する」と見做すことである(e.g. Bratman 1999)。この二層アプローチはいくつかの利点をもたらす一方で、それ[利点?]は、ある種の規範的優位性の譲歩によって、無反省のレベルでの再構築されていない欲求に制限される。より統合されたアプローチは、根本から欲求の性質を再考するという方法で、コミットメントの心理学をモデル化するかもしれない。魅力的な可能性の一つは、アリストテレス的な欲求の概念を、善または明白な善のためのものに戻すことである(cf. Richardson 2004)。この考えによれば、行為がそのために為されるような目的は、部分的には人が為さないだろうことを示唆するという形で、重要な規制的役割を演ずる(Richardson 2018, §§8.3–8.4)。したがって、最終的目的についての推論は独特な特徴をもつ(see Richardson 1994, Schmidtz 1995)。コミットメントの概念についての最良の哲学的説明が何であれ――別の代替案については Tiberius 2000 を参照のこと――、道徳的推論の多くはコミットメントの表現と課題を含むように思われる(Anderson and Pildes 2000)。

[この段落は実際の心理学実験の話とか、道徳文法の話とか]

[この段落は、道徳的でない人が道徳的推論をするということは可能か、みたいな話]

2.5 Modeling Conflicting Moral Considerations

道徳的な考慮事項はしばしば衝突する。道徳的な原則と道徳的なコミットメントもそうである。親子の絆と愛国心が道徳的な考慮事項であると仮定すると、サルトルの生徒は道徳的対立に直面する。道徳の形而上学または道徳文の真理条件をモデル化することと道徳的推論の説明を与えることは一つのことだということを思い出そう。矛盾する考慮事項に目を向けると、ここでの関心は前者ではなく後者にある。われわれの主な関心はある程度、「それらが関与する推論とうまく折り合いをつけるために、対立する考慮事項を構造化しあるいは考察する必要がある」ということにある。

ロスの「一見自明の義務」論

道徳的対立について考えるための影響力のある不可欠な要素の一つは、W・D・ロスの「一見自明の義務」の概念である。この用語は誤解を招くような単なる外観(一見したものの見え方)を示唆しているが、それは定着している。道徳哲学者の中には、「pro tanto の義務1」という用語を好む人もいる(e.g., Hurley 1989)。ロスは、彼の用語は「ある種類のもの(例えば、約束を守ること)であるという理由で、すなわちもし同時に道徳的に重要な他の種類のものが存在しなければ厳密な意味での義務になっただろう行為であるという理由で、(厳密な意味での義務であることとはまったく異なる)行為が持つ特性を指す簡単な方法を提供する」と説明した。その点を説明するために、ロスは、約束を守るという一見自明の義務は重大な事故を回避するという一見自明の義務によって上書きされ、その結果、(重大な事故を回避するという)厳密な意味での・無条件の義務が生じることを指摘した(Ross 1988, 18–19)。ロスはそれぞれの一見自明の義務を「部分的帰結的(parti-resultant)」特性(それは行為の一側面によって根拠づけられたり説明されたりする)として記述した。一方、「人の[実際の]義務である」ことは、行為のそうしたすべての側面から生じる「全面的帰結的(toti-resultant)」特性である(28; see Pietroski 1993)。これは、それぞれのケースにおいて基本的にはそれぞれの一見自明の義務の部分的貢献から実際の義務へ一般に写像してくれるような関数が存在することを示唆している。その関数はどのようなものであろうか。ロスの確信として、彼は「これら一見自明の義務の比較的厳密性の見積もりにとって、私の見る限りでは、一般的規則は策定しえない」(41)。したがって、ロスにおける第二のより糸は、徳のある人に育てられた人による実践的判断の必要性を(アリストテレスに従って)強調する(42)。

一見自明の義務によって構成される類の考慮事項はいかにしてわれわれの道徳的推論に関与しうるだろうか。それらは明示的に、あるいは暗黙的に関与しうる。第三の、より弱い可能性も存在する(Scheffler 1992, 32)。すなわち単に、もし行為者が一見自明の義務を認識したならば、それが上書きされると見做さない限り彼はそう行為するだろうという事実がありうるという可能性である。これは、彼が推論しただろう仕方についての事実である。

一見自明の義務の比較的厳密性を見積もることに対する一般的方法は存在しないというロスの否定的意見にもかかわらず、この否定を覆すようなこともロスは言っている。ロスは「一見自明の正しさの最大均衡」という観点で語る。この言葉と、「比較的厳密性」という概念とから、[一見自明の義務から実際の義務への]関数はどの衝突のケースでも同じである可能性があるし、またそれは定量的なものである可能性がある、ということが示唆される。この発想においては、もし衝突する二つの一見自明の義務が存在ならば、その状況で最も強いものが勝利を収めるべきである。添加の誤謬(2.3節参照)に正当に注意すると、われわれはある状況での道徳的考慮事項の強さから他の状況での強さは導出し得ないことを認識するだろう。したがって、このアプローチは多くの場合においてやはり直観的判断に頼る必要があるだろう。しかしこの直観的判断は、どの一見自明の考慮事項がより強いかに関するものであり、単に何を為すべきかに関するものではないだろう。

価値の通約可能性の分類――形而上学的な通約可能性・討議的な通約可能性

道徳的推論はこの種の仮想的な定量的な基盤を必要とするとかそういう基盤によって恩恵を受けるとかいった考えは、長い歴史をもつ。だが本当に、結局のところ競合する考慮事項の重みづけを評価することになるような仕方で道徳的に正しく推論することができるのだろうか。

この問いに取り組むためには、道徳的理性の本姓に関する追加説明が必要となろう。この可能性の哲学的基盤は、実践的通約可能性の概念を含む。ここで、二種類の実践的通約可能性・通約不可能性について区別する必要がある。一つは形而上学の用語、もう一つは討議に関する用語(deliberative term)である。これらの形式のそれぞれは、評価的あるいは義務論的に述べられうる。

第一の、形而上学的な意味での価値の通約不可能性は、何が事実であるかの観点から直接に定義される。したがって、評価的バージョンを述べるとこうなる――二つの価値が形而上学的に通約不可能であるのは、一方が他方より良いともどちらも同じくらい良いとも言えないような場合である(see Chang 1998)。

さて、形而上学的な意味での価値の通約不可能性は、どのように討議するのが合理的かということと緩い関係しかない。[その理由はこうだ。]まず、すべての価値観・道徳的考慮が形而上学的に(つまり、実際に)通約可能である場合でも、最終的な通約関数へのアクセスが非常に制限されており、どの結果が「より良い」かとかどの考慮事項が「より強い」かなどを考えようとするために議論を進めることによって不適切にやっていくことになる、という可能性がある。それに、関連する「強度」をどのように測定するかについて、手がかりがないかもしれない。逆に、形而上学的な価値の通約不可能性が一般的であっても、われわれは討議してうまくやっていくだろう。ちょうど、理想状態で気体の法則が確立しているかのようにして熱力学を使えるのと同じように。

討議的な通約可能性

したがって、通約不可能な価値の討議における含意について考えるためには、討議の文脈に合わせた定義の観点から考えるのがよいだろう。AとBという二つの選択肢が討議において通約可能であるのは、価値の一つの次元が存在し、その観点においてはA・Bの選択に先立って(あるいはA・Bの選択とは論理的に独立に)選択に関係する考慮事項の力を表すことが十分に可能である、という場合である。

カントやミルを始めとする哲学者は、二つの選択肢が討議的に通約可能でない限りそれらの選択肢から合理的に選択することはできないと論じた。

[…]

道徳的ジレンマ

この仕方で一つの義務が他の義務を上書きするという概念を理解することによって、道徳的ジレンマというトピックを取り上げることがわれわれには可能となる。このトピックは別の記事で取り上げられているので、ここでは道徳的ジレンマの一つの魅力的な定義を取り上げるにとどめよう。シノット゠アームストロング(1988)は、道徳的ジレンマとは次がある一人の行為者にとって真となるような状況であると提案している。

  1. 彼はAすべきだ。
  2. 彼はBすべきだ。
  3. 彼はAとBの両方をするということはできない。
  4. (1)は(2)を上書きせず、(2)は(1)を上書きしない。

道徳的ジレンマのこの定義は、ロスの「約束を守る・事故を防ぐ」の場合のような道徳的衝突(この場合は一方が他方を上書きする)と、道徳的ジレンマとを区別する。疑いなくサルトルの生徒も道徳的ジレンマに直面している。討議における通約可能性が否定されるのであれば、どちらの義務も他方を上書きしないような状況に意味をもたせるのは簡単だ。道徳的ジレンマが可能かどうかは、「べし」は「できる」を含意するのかどうか、そして「Aすべき」と「Bすべき」から「AかつBということをすべき」が含意されるのかどうかということに、決定的に依存しているだろう。もし義務の論理における原理と言われているこれらの原理の少なくともどちらかが偽なのであれば、道徳的ジレンマは可能であることになる。

ダンシーの理由全体論

ジョナサン・ダンシーは、道徳的理由において一種の文脈可変性を強調しており、これは「理由全体論」として知られるようになってきている。理由全体論によれば、「ある状況では理由であるような特徴が、他の状況ではまったく理由ではなかったりあるいは正反対のことの理由になったりしうる」(Dancy 2004)。例えば、嘘をつくべきでない道徳的理由はしばしば存在するが、ポーカーをプレイしているときには嘘をつくべきである(さもなければゲームを台無しにしてしまうだろう)(cf. Dancy 1993, 61)。理由全体論は2.2節で議論したような道徳的個別主義を支持するとダンシーは論ずる(道徳的個別主義によれば擁護可能な道徳的原理は存在しない)。この結論を真剣に受け止めることは、いかに道徳的推論を行なったのかに根本的に影響を与える。

理由全体論の議論の前提は、異議が唱えられている(e.g., Audi 2004, McKeever & Ridge 2006)。哲学者らはまた、理由全体論から道徳的個別主義への推論に様々な仕方で批判を加えてもいる。例えば Mark Lance and Margaret Olivia Little (2007) は、いかに撤回可能型一般化が(倫理学や他の分野で)文脈に体系的に依存しているかということを示すことで、批判を加えている。道徳的に顕著な考慮事項を見定める能力に似た能力を、すなわち可能世界間での関連した類似性を見定める能力を利用することによって、われわれはそれら[理由存在論?]と協力できる、と彼ら[LanceとLittle]は言う。より一般的には、ジョン・F・ホーティが論理的・意味論的な説明を発展させてきた。それによれば、理由はデフォルトであり全体論的に振る舞うのだが、しかしそれでもなお(デフォルトがいかに振る舞うかを説明するような)一般的原理は存在する(Horty 2012)。また、理由の全体論的な見方は実際には一般的原理が存在すると仮定することによってよりよく説明されると、マーク・シュレーダーは論じている(Schroeder 2011)。

道徳的理由へのこの追加説明は、なぜ道徳に関して推論することは単に競合する考慮事項の重みづけを評価することに還元されないのかについて、多くの良い理由が存在することを示唆している。

文献

  • Richardson, Henry S., “Moral Reasoning”, The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2018 Edition), Edward N. Zalta (ed.).

  1. pro tanto は「ある程度まで」の意味のラテン語。 ↩︎

2020年3月9日
2021年8月14日
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