哲学覚書

意味の理論の覚書

「意味の理論(theory of meaning)」という語は、ここ一世紀に渡って様々な仕方できわめて多くの哲学的議論に関わってきた。不幸なことに、この語はきわめて多くの異なることを意味するのに用いられてもきた。本稿では、二種類の「意味の理論」に焦点を当てる。第一の種類の理論すなわち意味論(semantic theory)は、言語表現の意味論的内容を割り当てる理論である。第二の種類の理論すなわち意味の基礎理論(foundational theory of meaning)は、その事実のために表現が意味論的内容をもつことになるような、そういう事実を述べる理論である。短い導入の後、これら二種類の理論について議論する。

1. Two Kinds of Theory of Meaning

[意味論と意味理論との区別。「(特定の人や集団にとっての)この記号、あるいはその記号の意味は何か」という問いと、「その人や集団についてどのような事実があるかによって、その記号はその意味を持つのか」という問いの間には、明らかに区別がある。]

この二つの理論の議論に入る前に、言語哲学の著名な伝統の一つが、言語表現の意味に関する事実の存在を否定していることに注目しておくべきであろう(例えば、Quine 1960、Kripke 1982、批判的な議論についてはSoames 1997を参照のこと)。意味に関するこの種の懐疑主義が正しいとすれば、真なる意味論も真なる意味の基礎理論も存在しないということになる。これらの懐疑的な議論についての議論は本稿の範囲を超えているので、以下では、単に意味についての懐疑論は間違っていると仮定する。

2. Semantic Theories

現代の言語哲学における意味論への主なアプローチを説明する仕事は、基本的な障害に直面しているように思われるかもしれない。二つの異なる自然言語が同じ意味論をもつはずはないので、意味論に対する異なる立場を一般的に論ずることはできないように思われるのだ。この問題には比較的単純な解決策が存在する。英語とフランス語の意味論は確かに異なるだろうが、どんな自然言語の意味論もある意味で同じ形式をもつべきだとほとんどの人は仮定している。したがって以下の目的は、個別の表現の意味論に対する見解の詳細な説明を与えることではなく、自然言語意味論に対する主要なアプローチ(自然言語の意味論はどんな形式を取るのが正しいのかに関する主要な見解)を読者に紹介することである。

始める前に一つ注意。意味論家がある言語の表現の意味を説明し始める前に、その意味論家は何の意味を説明しようとしているのかについての明確な考えを必要とする。これはあまり問題に見えないかもしれない。しかし、文の意味論的に重要な部分は何か、それら部分がいかに結合して文を形成するかを説明する仕事は、意味論それ自体と同じくらい複雑であり、意味論に対する重要な帰結をもたらす。実際、あるクラスの表現の正しい意味論的取り扱いに関するほとんどの論争は、その表現が関わる文の構文形式についての問題と密接に関係している。残念ながら、この種の理論(自然言語の文の構文ないしは論理形式を説明しようとする理論)についての議論は本稿の話題を超えている。結果として、リチャード・モンタギューのような人物(構文論とその意味論への接続についての彼の仕事は、過去数十年に渡って意味論の発展の中心であった)は次に譲る。構文論と意味論との接続に対する素晴らしい紹介として、Heim & Kratzer (1998) がある。言語哲学と言語学のいくつかの分野との関係の概観は、Moss (2012) を参照。[意味論を始める前に、構文論が明確でないといけないのだが、実際には構文論と意味論とは複雑に絡まった問題を形作っているので、構文論を決め込んで意味論を始めるというのは難しい][ひょっとして、意味論をやっている哲学者と言語学者で何が違うかというと、言語学者は構文論にもかなり興味をもつけど哲学者の軸足は意味論にある、みたいな感じだろうか]

自然言語意味論には様々なアプローチがある。私の戦略は、20世紀のあいだに発展し、言語学と哲学の両方の意味論における現代の論文でもまだ顕著に意味論を代表しているような、そういう意味論へのアプローチの説明から始めることだ。これらを古典的意味論と呼ぶことにする。古典的意味論は、「文は典型的には真偽をもち、文の真偽はその文がどんな情報を表しているかに依存して決まる」とする。この「情報」はしばしば「文が表す命題」と呼ばれる。古典意味論家によると、意味論の仕事は(少なくともその大部分は)文の部分の意味が、その文が使用された文脈と組み合わさって、いかにその文が表す命題を決定するのかを(したがってその文の真理条件を)説明することである。

2.1 Classical Semantic Theories

様々な種類の古典的意味論を理解する最も簡単な方法は、別の種類の理論、すなわち指示の理論から始めることだ。

2.1.1 The theory of reference

指示の理論は、表現と、その表現が自分が現れる文の真理条件を決定することへの貢献とを、結びつける理論のことである(後に見るように、表現の指示に関するこの見解はある仕方で制限されねばならないけれども)。

この指示の理論は、数学的推論の形式化にとって十分な論理を定式化するゴットロープ・フレーゲの試みに遡ることができる。この種の指示の理論の構築は、固有名の例から始めることによって最もよく説明される。次の文を考えよう。

  • (1) バラク・オバマはアメリカの44代目の大統領だ。
  • (2) ジョン・マッケインはアメリカの44代目の大統領だ。

(1)は真、(2)は偽だ。明らかに、この真理値の違いは「バラク・オバマ」と「ジョン・マッケイン」という表現の違いに遡りうる。これら表現についての一体何が、これら文の真理値の違いを説明してくれるのだろうか。きわめてもっともらしいのは、「バラク・オバマ」は44代目大統領であるような男を表しているが「ジョン・マッケイン」はそうではない、という事実こそそれである、というものだ。これは、固有名の指示対象(reference)――文の真理条件を決定することに対する固有名の貢献――はその名前が表す対象(object)だということを示唆する(これはもっともらしい一方で、名前の目的は個体を指示することだというのは議論の余地がないわけではない。 Graff Fara (2015)、Jeshion (2015)を参照のこと)。

この出発点を前提にすると、他の種類の表現の指示対象についてのいくつかの結論を得るのはたやすい1。次の文を考えよう。

  • (3) バラク・オバマは民主党員だ。
  • (4) バラク・オバマは共和党員だ。

またしても、(3)は真、(4)が偽だ。われわれはすでに、「バラク・オバマ」の指示対象はその名前が表す男であることを知っている。よって、指示対象が真理値に影響を与える力だとすると、われわれは「は民主党員だ」とか「は共和党員だ」といった述語の指示対象こそが対象と結びついて真理値を生む何かでなければならないということを知ることになる。したがって、この種の述語の指示対象は対象から真理値への関数と見做すのが自然である。「は民主党員だ」の指示対象は、民主党のメンバーであるような対象を入力として与えたとき「真」という値を返す関数であり、一方、「は共和党員だ」の指示対象は、共和党員のメンバーであるような対象を入力として与えたとき「真」という値を返す関数である。これこそ、(3)が真で(4)が偽であるという事実を説明するものである。オバマは民主党のメンバーなのであり、共和党のメンバーではないのである。

この種の指示の理論を、英語のような自然言語において見出すことのできるより多くの表現のタイプを覆うように拡張するとき、事態はさらに複雑に、そしてさらに議論の余地あるものになる(入門として、Heim and Kratzer (1998))。しかし上記は、大まかなアイディアを与えるには十分である。例えば、「愛する」のような述語は、(一つではなく)二つの名前と結びついて一つの文を形成する。それゆえこの種の二項述語の指示対象は、二つの対象と結びついて真理値を決定するような何か――多分、対象の順序対から真理値への関数――でなければならない。

2.1.2 Theories of reference vs. semantic theories

満足のゆく意味論が得られたことになるだろうか。

そうではない、とする説得力のある議論がある。Quine (1970 [1986], pp. 8–9) の例を採用すると、心臓をもつ動物の集合は腎臓をもつ動物の集合と等しい[前者を心臓動物、後者を腎臓動物と呼ぶことにする]。さて、次の文を考えよう。

  • (5) すべての心臓動物は心臓動物だ。
  • (6) すべての心臓動物は腎臓動物だ。

仮定により、どちらの文も真である。さらに、指示の理論の見地からすると、(5)と(6)はまったく同じだ。つまり、二つの文は「心臓動物」を「腎臓動物」に置き換えた点が異なるのみであり、これら表現はまったく同じ指示対象をもつのである。

それでもやはり、(5)と(6)のあいだには明らかに意味の違いが存在する。(5)は自明で退屈な思想を表現している。その一方(6)は非自明で情報量のある主張を表現している。このことが示唆するのは、(5)と(6)のあいだには、指示の理論が単に捉え損なっている重要な違いが存在するということである。

同様の例は別のタイプの表現の組を用いても生成しうる。「クラーク・ケント」と「スーパーマン」とか、「宵の明星」と「明けの明星」などである。

これは、指示の理論の不完全さを示す議論としてはかなり弱いと思われるかもしれない。しかしこの議論は(5)や(6)のような文をより複雑な文へと埋め込むことによって強くすることができる。

  • (7) ジョンは、すべての心臓動物は心臓動物だと信じている。
  • (8) ジョンは、すべての心臓動物は腎臓動物だと信じている。

(7)と(8)は、太字の表現のみが異なっており、これら表現は同じ指示対象をもつ。それにもかかわらず、(7)と(8)が異なる真理値をもちうることは明らかであるように思われる。しかしそれは、表現の指示対象はその表現の仕事を果たさないことを意味する。つまり、表現の指示対象は、その表現が文の真理値を決定することへの貢献を説明しないのである。もし(7)と(8)はいかにして真理値が異なりうるかを説明できるとするならば、表現は、指示対象以外に、何か別の種類の値・意味をもたなければならない。

(7)と(8)は信念帰属と呼ばれる。信念帰属は、命題的態度帰属の一種である。以下で明らかになるように、命題的態度帰属は近年の意味論の議論においてきわめて重要である。なぜそれが重要なのかの理由の一つは(7)と(8)によって例示されている。これら文は太字の語のみが異なるという事実にもかかわらず真理値が異なりえて、しかもこれら語はどちらも同じ指示対象をもち二つの文構造の同じ位置を占めているので、われわれは「(7)や(8)は非外延的文脈を含む」と言う。大まかに言えば、非外延的文脈とは、外延を共有する語同士を置き換えることで文の真理値が変わりうるような文の場所のことである(それが「非外延的文脈」と呼ばれるのは、「外延」とは「指示対象」の別表現だからである)。

われわれは、文全体の置換に基づいても、指示の理論の不完全さを示す同様の議論を与えることができる。指示の理論は、文の真理値への貢献を説明してくれる値を文の部分の表現(subsentential expression)に割り当てるが、それらの文に対しては、「真」または「偽」を割り当てるだけである。しかし次の文を考えよう。

  • (9) メアリーは、バラク・オバマはアメリカ合衆国の大統領だったと信じている。
  • (10) メアリーは、ジョン・キーはニュージーランドの首相だったと信じている。

太字はどちらも真なので、(9)と(10)は、同じ指示対象をもつ表現の置き換えの点のみが異なっている。しかしながら、(9)と(10)は真理値が異なりうる。

このことは、意味論は文に対して真理値のほかにも何か値を割り当てるべきだ、ということを示しているように思われる。この結論への別の道は、次の種類の主張の明白な正しさである。

  • ジョンがインディアナ州について信じている三つのことが存在し、そしてそれらはすべて偽である。
  • アプリオリでない多くの必然的真理が存在し、そして私のお気に入りの文はそれらのうちの一つを表現している。
  • Aを得るためには、あなたは私の言うことすべてを信じなければならない。

これらのような文は、信念のような心的状態の対象であり、真・偽の担い手であり同様に必然性・可能性のような様相的性質やアプリオリ性・アポステリオリ性のような認識論的性質の担い手でもあり、文によって表現されるような、そういうものが存在することを示すように思われる。これらのものとは何だろうか。指示の理論では答えは得られない。

これら存在物はしばしば命題と呼ばれる。命題の支持者は、これら存在物の理論を提供することと、それによって指示の理論に対する二つの問題を解決することの両方を目的としている。二つの問題とは、①(5)はトリビアルだが(6)はそうでないという事実の説明ができないという問題と、②(7)/(8)や(9)/(10)のように、指示対象が同じ表現の置換のみが異なる文が異なる真理値をもちうる、という事実の説明ができないという問題である。

したがって命題の理論は指示の理論を棄却するものではなく、指示の理論よりも多くのものが意味論には存在すると言うだけである。文の部分の表現は、指示対象に加えて、内容をももつ。文の内容――文が表現するもの――は、命題として知られる。

2.1.3 The relationship between content and reference

自然に思いつく次の疑問はこうだ――どんな種類のものが内容なのか。以下で私はこの疑問への主要な解答について議論するつもりだ。しかし内容とは何かについての何らかの理論を説明する前に、われわれは内容が演ずるとされる役割についてのいくつかの一般的な事柄について述べることができる。

第一に、内容と指示の関係とは何か。この疑問を文と関連させて検討してみよう。ここでは文が表現する命題と文の真理値との関係を問うことになる。(9)と(10)の例から浮かび上がってくるのは、二つの文が同じ真理値をもちながら、異なる命題を表現することができるということである。結局のところ、これらの文によってメアリーに帰属された信念は異なっているので、もし命題が信念の対象であるならば、太字の文に対応する命題は異なっていなければならないのである。それにもかかわらず、どちらの文も真である。

逆は可能だろうか。二つの文が同じ命題を表しているのに真理値が異なるということは可能か。可能ではないと思われる。このことは、信念の対象としての命題の役割によって再び説明しうる。あなたと私はまったく同じことを信じているとする。私の信念は真であなたの信念は偽であるということがありうるか。直観的には、ありえないと思われる(§2.3.2で議論する相対主義はこれへの反論となるが)。したがって、二つの文が同じ命題を表すならばそれら文は同じ真理値をもつのでなければならない、と思われる。

一般に、同じ内容をもつ二つの文(つまり同じ命題を表現する二つの文)はつねに同じ指示対象をもつのでなければならないというのは、もっともらしく思われる(同じ指示対象をもつ二つの表現は異なる内容をもつことはありうるけれども)。これは、意味(sense)は指示対象(reference)を決定するという、フレーゲ的スローガンによって述べられる見解である(senseはSinnの慣用的訳語で、意味としてはcontentに近い)。

この理論が文に当てはまるのであれば、それは文の部分表現にも当てはまるだろうか。当てはまらなければならないと思われる。背理法の仮定として、二つの部分表現eとe*は同じ内容をもつが指示対象は異なるとしよう。同じ内容の表現の置き換えのみが異なる二つの文は同じ内容をもたなければならない、とするのはもっともらしく思われる(ただしこの原則は議論の余地がないわけではない。合成性の項目を参照のこと)。しかしもしこれが真であるならば、eとe*の置換のみが異なる文は同じ内容をもつはずだ。しかしそのような文は真理値が異なりうる。というのも、指示対象の異なるどの表現の組に対しても、その表現の置換のみが異なる文の組が存在して、その文同士は真理値が異なる、からである。したがって、もしeとe*のように内容は同じだが指示対象が異なる表現の組が存在しうるのであれば、同じ内容をもつのに真理値が異なりうるような文の組が存在しうることになる。しかしこれは、上で不可能だと議論したことである。したがって、eとe*のような表現の組は存在しえない。文と同様に文の部分表現についても、内容が指示対象を決定するのでなければならない。

この結果――内容は指示対象を決定する――は、われわれが意味論に求めるべき一つのことを説明する。意味論は、各々の表現に対して、その指示対象を決定してくれるような何らかの値――内容――を割り当てるべきである。

2.1.4 Character and content, context and circumstance

しかし、英語のような言語の表現のすべてに対して、この意味で、内容を割り当てることができるというアイディアには、明らかな問題が存在する。「私」とか「ここ」といった多くの表現は、異なる発話者によって異なる状況で発話されたとき、異なる指示対象をもつからである。したがってわれわれは「私」に対して、その指示対象を決定してくれるような単一の内容を割り当てるわけにはいかない。というのもこの表現は異なる状況では異なる指示対象をもつからだ。これら「状況」は典型的には発話文脈(contexts of utterance)、あるいは単に文脈と呼ばれる。また、指示対象が文脈に依存するような表現は、指標詞とか文脈依存表現などと呼ばれる。

そうした表現が明らかに存在することは、意味論は言語のすべての表現に対して内容を単に割り当てる以上のことをしなければならない、ということを示している。「私」のような表現はまた、発話文脈を所与として、表現の内容を決定する規則と関係してもいる。これら規則――文脈から内容への関数――は、特性(character)と呼ばれる(用語は Kaplan (1989) による)。それゆえ「私」の特性がどんな〈文脈から内容への関数〉でなければならないかというと、私が発話者であるような文脈では私を指示対象として決定するような内容をもたらすし、バラク・オバマが発話者であるような文脈ではバラク・オバマを指示対象として決定するような内容をもたらす、といったような関数でなければならない。

ここでわれわれは、「意味」に関する、別の潜在的にミスリーディングな曖昧さに直面する。表現の本当の意味とは何だろうか。特性か、(関連する文脈における)内容か。最良の解答は多元主義者のそれだ。表現は、文脈が与えられれば内容を決定してくれるような特性をもつ。われわれは特性と内容のどちらかについて語ることができるし、どちらも重要だ。重要なことは、その区別をはっきりさせることであり、表現が特性と内容のどちらももつと考える理由を理解することである。

指標的表現はどれくらい多く存在するのだろうか。「私」「ここ」「いま」など、明らかな代表は存在する。しかし明らかな代表を超えたところで、議論が続いている。§2.3.1を参照のこと。

しかし、ほとんどすべての表現が指標的だということを示すある種の議論が存在する。

2.2 Alternatives to Classical Semantic Theories

しかし、古典的意味論は唯一の選択肢ではない。本節では、古典的意味論に対する五つの代替案の基礎を概観する。

2.2.5 Expressivist semantics

最後の代替案は、上の四節で議論したものとは二つの点で異なっている。

第一に、他の非古典的アプローチと異なり、表出主義意味論はもともと言語学的考察によって動機づけられたものではない。むしろそれは、具体的にメタ倫理学的考察に応答するために発展した。

これは、他の非古典的アプローチと異なる第二の点を導く。他の四つの非古典的アプローチはすべて「全面的代替案」である。これに対して、表出主義者は典型的には古典的意味論が多くの言語表現にとって正しいということを認める。彼らは、言語表現のいくつかの部分の特殊な特徴が表出主義的取り扱いを必要とする、とだけ考えている。

表出主義の伝統的バージョンは、二つの基本的な考えを含むものとして考えることができる。第一に、われわれは心的状態の意味を、文が表出する心的状態は何かを言うことで説明しうる。第二に、倫理についての文によって表出される心的状態は、「事実的な」文によって表現される心的状態とは異なる種類のものである。

すると次の問題が示唆される。一つめは、ここで「表出する」とはどういう意味かというもの。一つの答えとしては、Gibbard (1990) を参照のこと。二つめは、心的状態の違いは何に存するのかについての問題。多くの見解では、非倫理的文が表出する心的状態は信念であり、倫理的文が表出する心的状態はそうではない。感嘆(Ayer 1936)、指令(Hare 1952)、計画(Gibbard 1990, 2003)など、様々な立場がある。

表出主義が抱える問題として、フレーゲ・ギーチ問題がある(Geach 1960, 1965)。なお、Searle (1962) によっても、独立に同様の問題が示されている。

この問題に対する解決策についての議論と、表出主義に対する影響力のある批判は、Schroeder (2008) を参照されたい。

近年の表出主義の研究の多くは、伝統的な場合に比べ、倫理学の特殊なケースにあまり焦点を当てておらず、純粋に言語学的な考察によって動機づけられている。Yalcin (2007) は認識様相について、Moss (2013) は信念帰属について、MacFarlane (2016) は曖昧さについて論じている。

文献

  • Speaks, Jeff, “Theories of Meaning”, The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2019 Edition), Edward N. Zalta (ed.).

  1. Given this starting point, it is a short step to some conclusions about the reference of other sorts of expressions. ↩︎

2020年3月21日
2021年8月14日
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