哲学覚書

Gibbard (1990) の覚書

倫理的な判断と合理性についての判断に関する一般理論を展開。

Preface

この本にとっての私の思想は、哲学的な問題解決のはっきりした一欠片から始まった。その問題は十分に理解しづらい。その問題とは、「合理的」という語は何を意味するか、というものだ。われわれはある一時点で何を為すのが合理的かを問うことができるし、より広く、いかに生活を送るのが合理的かを問うことができる。われわれは何を問うているのだろうか。それは人生における最も広い問い――いかに生きるべきか――であるように思われる。しかし、「合理的 」という語は、「べき」や「よい」や「正しい」といった道徳語の問題のすべてに取り囲まれており、それら問題に道徳哲学者の大群は今世紀の三分の二ものあいだ費やしてきた。すると、合理性に対してそれら技術のうち機能するものがあるだろうか。エイヤー、スティーヴンソン、ヘアといった倫理的非認知主義によって開拓されてきた装置を私は利用しうるだろうか。ヘアの条件的命令の理論から私は始めた。そして、私が自分の理論を発展させた後、アイザック・レヴィが、私が言っていたことの核心に迫る方法を提案した。私は規範とその受容の観点から自分の理論を説明した。そしてこの本はその最終的結果なのだった。

私は確信するようになったことだが、合理性は人生と思考のすべての側面に関わっている。「合理性」という語それ自体は日常的思考のなかに滅多に現れることはない。しかしこの語を用いることで、道徳についての考え・持つに値するものについての考え・ある主張が信用するに値するかどうかについての考え・何が恥ずべきものであり何が自慢の理由であるのかについての考え・そして哲学者が規範的と呼ぶすべての種類の考えを、われわれは説明することができる。合理性は、分析すべき最も重要な概念だった。

とはいえ、自分の理論を発展させたとき、私は、それが最も重要であるにもかかわらず、語の意味をはるかに超えて垣間見ていることに気づいた。われわれは特別な動物であり、われわれは自身を特別なものとして見做すのは簡単だと思っている。しかし、われわれは自身を特別な動物であると想像するのは難しい。合理性や正当化や道徳性について考えることのできるわれわれ人類は、自分のことを進化してきた生き物の一員であるといかに理解しうるのだろうか。進化論の最新の研究がその答えを与えうると私は確信するようになった。広く道徳的な要素は、人生に行き渡っている。そして、われわれのように高度に社会的で言語的な生き物の進化について考えることによって、われわれはなぜそうなのかを理解し始めることができる。この点では私の思弁は、よくても、真理への最も大雑把な近似でしかない。だがそれでも、私は人間の規範的生活に対する自然主義的描像の概略を説明しようとするが、その描像のなかでは、真理がその近辺のどこかにあるのではないかと私に考えさせるのに十分なほど、現象がまとまり、調和している。もしそうだとすれば、古い哲学的問題はいまや新たな形態で生ずる。この自然主義的描像のなかで、合理性と道徳性はいかなる場所をもつのか。これら問題に関する思考はいかなる場所をもつのか。この本において新たなテーマが浮かび上がった。すなわち、進化した生物種の自己理解するメンバーとして、われわれはいかに考えることができるのか、というテーマである。

哲学者は思考の装置の並外れた収集物を集めてきた。そして様々なこれら装置は私が取り組んでいる主要な問題群に役立つことが見込まれる。本書を通じて、私は巨人の肩にしがみつく。すなわち、私は様々な哲学的発明品を適用し、ときどきそれら装置を改良することに取り組む。

1. The Puzzle

なぜ人生について熟考するのか。極端に言えば、この問いは生きた問いではない。われわれは熟考する生き物だ――それぞれが一人だけで熟考するのではなく。われわれは会話する生き物だ(we are conversants)。沈黙は規律なのであって、子供たちが学校で学んだように、沈黙が過ぎると苦しいものである。ときどきわれわれは真面目に議論する。そしてどんな状況でも、われわれは冗談を言ったり、からかったり、口論したり、すねたりする。われわれはお喋りをしたり、可能なら詩の形で、物語を語ったりする。これら物事は、核心をもっているがゆえにわれわれを魅了するのだろうか。それらは、互いに問題を処理する方法なのだろうか。われわれがまったく熟考していないときでさえ、われわれは同等のものに夢中になっている。

人類は、つねにそうあってきた。カラハリに住むクン族は狩猟採集民であり、われわれの祖先である狩猟採集民もおそらくはクン族のように生活していたと思われる。「クン族の野営における会話は、小川の音のような一定の音であり、甲高い笑い声を除いては、低音とlappingである。[こういうときにこういう会話をするみたいな話が続く]」。クン族は互いを批判し、お喋りをし、遠回しに仄めかす。彼らは狩りの計画を立て、成功したハンターは彼の獲物の適切な分配について取り組むかもしれない。ときどき彼らは口論するし、頻繁に贈与とその適切さについて話す。

したがって会話は、情報を運ぶこと以上のことをしている。会話において、われわれは物事・出来事・人々について何を信じるべきかを理解するだけでなく、いかに生きるべきかを理解する。われわれは、われわれの人生における、そして他人の人生における物事について、どう感じるべきかを理解する。むろん、われわれは物事の本質をつねに得ようと努力しているというのではない。われわれは「いかに生きるべきか」とか「全体としていかに感じるべきか」といったことを考えているわけではなく、むしろ、あれこれの物事について考えている(それが注意を引くならば)。

ソクラテスは違った。プラトンは彼に、陪審員に向かって次のように言わせている。「もしまた私が、人間の最大幸福は日毎に徳について、ならびに、私が自他を吟味する際それに触れるのを諸君が聴かれたような諸他の事柄について語ることであって、魂の探求なき生活は人間にとり生甲斐なきものである[吟味のない生は生きるに値しない]、というならば、私の言葉は諸君にいっそう受取り難いであろう。諸君、それにもかかわらず、それは私のいう通りなのである」1(『ソクラテスの弁明』)。ソクラテスがそうした吟味なしの人生について語ったとき、彼は、ほとんどの人がそうしているかもしれないような生き方について警告したのだった。ソクラテスは、いかに生きるべきかというこれらの問いをさらに推し進めるために、毒人参を呷ったのだった。[…]私の知る限り、クン族はソクラテス的ではない。しかしソクラテスもクン族も、ともに人間という同じ種の生き物なのである。

本書で私はソクラテスの探求について問う。いかに生きるべきかを熟考すること、あるいはいかに生きるべきかについて論ずることは、実際には、どんな種類の人生が生きるのに合理的かを問うことにほかならない。私はこの問いに特別な答えを与えはしない。私の第一の関心は、この問いが何であるかである。ある選択肢を合理的であると呼び、あるいは別の選択肢を非合理的であると呼ぶことは、何を意味しているのだろうか。これが本書のパズルであり、そのパズルについて研究することから、われわれ自身やわれわれの問いについて学ぶ価値のあるものを学べるようになることが、私の望みである。

5. Normative Logic

本章の目的は、規範表出主義的な分析をより明確に述べ、その欠陥のいくつかを正すことだ。規範表出主義的な分析を大雑把に定式化すると、「ある行為・信念・感情を合理的だと呼ぶことは、それを許容するような規範の体系をその人が受け入れているということを表出することにほかならない」となる。前章でも「規範の体系を受け入れている」という心的状態について論じたが、しかし「規範の体系」とは一体何なのか、詳しくは論じなかった。それゆえ、多くの疑問が残っている。

最後に、少なくともあるきわめて重大な観点からすると、この分析はいまのところ、端的に不十分である。「クレオパトラはしばしば非合理なことをする」といった埋め込み文脈での「合理的」という語の使い方が、説明できないのだ。

こうした問題は高度に技術的な本を埋め尽くしうる。本章では、技術的なことは最小限に留めるよう努める。しかし、技術的な説明がいかに埋められうるかがはっきりするのに十分なことは言うよう努める。

Expressing a State of Mind

規範体系の受容を表出するとはどういうことなのか。それは、「規範体系を受け入れていると言う」ことではない。クレオパトラが「アントニーの海軍は敵に数で優っている」と言ったとする。彼女は「アントニーの海軍は敵に数で優っている」という信念を表出したのであって、「私はこういう信念をもっている」と言ったわけではない。彼女は海軍について語ったのであり、自分の信念について語ったわけではないのだ。同様に、今度はクレオパトラが「アントニーにとって戦いに勝つことは意義がある」と言ったとしよう。このとき彼女は、規範体系の受容を表出している。Aが「自分はこれこれの心的状態にある」と言うとき、実際にAがその心的状態にあることはAの言葉を真にする。これに対し、Aが心的状態を表出するとき、実際にAがその心的状態にあることはAの言葉を(真にするのではなく)誠実にする。

「合理的」という語の表出主義的分析はこの特別な形を取る。つまり、「合理的」が何を意味するかは、何かを「合理的」と呼ぶとはどういうことかを言うことによって説明される。そしてその分析によれば、何かを「合理的」と呼ぶことは、心的状態を表出することである。われわれはこの心的状態を、ある対象は合理的であるという「判断」と呼ぶことができる。したがってこの分析は、二つの部分から成る。①「これこれは合理的だ」と判断するとはどういうことか。②一般に、心的状態を表出するとはどういうことか。直接の事実的主張が直接の事実的信念を表出するのとちょうど同じように、これこれが合理的だと主張することは規範的判断を表出する。これこれが合理的だと判断することは、それを結局許容するような規範体系を受け入れることである。

むろん、言葉が判断を表出するということはほとんどの人にとって受け入れられるものだろう。規範表出主義的な分析のうち議論の余地があるのは次の二つだ。①規範的判断を下すとはどういうことかの説明について。②規範語の意味は、規範文がどんな判断を表出するのか(規範文がどんな心的状態を表出するのか)を言うことによって与えられるという主張について。

すると問題はこうなる。心的状態を表出するとはどういうことか、そして心的状態の表出はいかにコミュニケーションを成立させるのか。カエサルがクレオパトラに「私は幼少期に海賊に捕らえられた」と言うとする。なぜ彼はそうするのだろうか。彼は単に彼女に自分の幼少期を伝えているとする。すると、この話は次のようになるだろう。彼は、彼女に自分が海賊に捕らえられたことを知ってもらいたいと思っている。彼女はこの主題について真なる信念をもっていないと、彼は思っている。だが彼は、「彼は誠実であり、また彼は彼自身の過去についての信頼できる情報源である、と彼女は思っている」と信じている。ここで、「誠実であるとは、その人が実際にもつ信念のみを表出することにほかならない」そして「何かについて信頼できる情報源であるとは、それについて間違う可能性がきわめて低いということにほかならない」とする。それゆえカエサルは、彼が幼少期に海賊に捕らえられたということをクレオパトラに信じさせようと意図しているのであり、その意図を達成するために、次のようにすることになる。幼少期に海賊に捕らえられたという信念を表出することを慣習的に意味するような語を彼は発する。「彼はその信念をもっている」ということを(「彼はこんな意図をもっている」と彼女が気づくことによって)彼女が受け入れるようになることを、彼は意図する[グライスの理論が念頭にあるようだ]。彼女は彼が誠実であると見做すので、彼女は「彼は、自分は幼少期に海賊に捕らえられたと信じている」ということを受け入れる理由をもつことになる。彼は自分の幼少期についての信頼できる情報源であると彼女は信じているので、彼女は、実際に「彼は幼少期に海賊に捕らえられた」と結論することになる。

むろん語り手・聞き手が意識的にこのような推論を経ているというのではない。ここでの要点は、この推論は、語り手・聞き手の行為に意味を与えるだろうような種類の推論だ、ということである。

何かを合理的・非合理的と呼ぶことに対しても、同様の理由を与えることができるだろうか。カエサルがクレオパトラに「君の軍隊の指揮権は分割するのが最も理に適っている」と言うとする。それによって彼は、「君の軍隊の指揮権は分割するのが最も理に適っている」と判断するという心的状態を表出している。彼がこの判断を下すことは、「クレオパトラの状況に適用したときに結局のところ軍隊の指揮権を分割するよう彼女に命じるような、ある規範体系」を彼が受け入れることにほかならない。すると、彼がこの心的状態を表出することは何に存しているのか。直接の事実の場合と同様、それは、彼がこの心的状態にあると(この意図を彼女が認識することによって)彼女に思わせることを慣習的に意味する語を発することに存している。すると、もし彼女が「彼は誠実だ」と見做すならば、彼女は、「彼は、クレオパトラの状況に適用したときに結局のところ軍隊の指揮権を分割するよう彼女に命じるような、ある規範体系を受け入れている」と信じるようになる。

ここまでは信念の表出の場合と同じである。しかし、「彼はこれこれの規範体系を受け入れている」と彼女が信じたとき、彼女は果たして、軍隊の指揮権を分割する理由をもつことになるのだろうか。

少なくともこのケースでは、彼女はそうする理由をもつだろう。クレオパトラは、カエサルが「彼女自身が受け入れているような基本的規範」を受け入れている、と考えているとする(つまり、クレオパトラとカエサルは、軍隊を統率することにおける最終目標はクーデターの機会を最小限にすることだ、という規範をともに受け入れているとする)。また、彼女は、何によってクーデターの機会が最小限になるかに関する優秀な判断者だと彼を見做している、とする。すると彼女は、「彼は、この規範を自分の状況にいかに適用するかを、自分以上によく知っている」と考えることになるだろう。したがって彼女は、彼の規範的判断を自分自身の代わりと見做すことができる。それゆえ、もし彼が「君の軍隊の指揮権を分割することはクーデターの機会を減らすだろう」と言ったならば彼女は彼を事実的権威として見做すことができただろう、というのと同じように、彼が「君の軍隊の指揮権は分割するのが最も理に適っている」と言うとき彼女は彼を規範的権威として見做すことができる。

この種の権威を私は「文脈的」と呼ぶ。基本的規範が共有されているという文脈から来る権威だからだ。すべての規範的権威が文脈的なのだろうか。この疑問は、後の章で取り上げる。

Systems of Norms

規範表出主義的分析では、単に「規範」ではなく「規範体系」について語っている。われわれの規範的判断は、単一の規範に依存しているのではなく、何らかの力をもつものとして受け入れる複数の規範に依存しており、そしてわれわれがこれら規範のうち一方を他方より優先させる仕方に依存している。

われわれが受け入れる規範体系とは、われわれが何らかの力をもつものとして受け入れる規範、およびわれわれが規範の衝突を処理する仕方、に関するものである。このすべてはいかにして表象されうるだろうか。ある状況において、一方の規範が他方のそれを上書きするとはどういうことか。これに対しては、「規範」「重み付け」「優先」といった語の注意深い定義を開発しようとすることで、あるいは隠伏的にこれらの語を定義するような公理系を開発することで、答えることができよう。とはいえ、私の目的は比較的単純な方法で達せられる。すなわちその方法とは、個人の規範のこれら重み付けと優先順位のすべての最終的結果を記述すること、そして、規範体系を(現実的な状況から仮説的な状況まで広い範囲に適用しうるような)許容と要求の体系として見做すことである。

われわれは規範体系Nを、「N禁止される」「N任意である」「N要求される」という基本述語の族によって特徴づけることができる。「N禁止される」は単に「規範体系Nによって禁止される」を意味し、残り二つも同様である。他の述語はこれら基本述語から構築しうる。特に、「N許可される」は「N任意であるかまたはN要求される」と表せる。

これら述語は規範的というより記述的だ。つまり、あることがN許可されているかどうかは事実の問題だ。「AはN許可されている」ことに同意したからといって、Nという規範体系を受け入れていない限り、Aを受け入れたことにはならない。

規範体系が完備であるのは、任意の選択肢について、それがN禁止されるかN任意であるかN要求されるかのいずれかだという場合である。

通常、人は不完備な規範体系のみを受け入れているだろう。ある規範を受け入れるか拒否するかで決めかねるかもしれないし、規範の重み付けについて未決定かもしれない。それゆえ、規範が衝突する状況で、どちらの規範を適用するかについて未決定でありうる。こうした規範的不確実性は、事実的不確実性とは異なる。たとえすべての事実を知ったとしてもなお規範的不確実性は残ることがありうるのだ。

文献


  1. 「もし私が、善良さや他のすべての話題について議論せずに一日も過ごさないことが、私が話しているのを聞いて、自分と他人の両方を吟味し、吟味することが、人ができる最高のことであり、このような吟味のない人生は生きている価値がないと言ったら、あなたは私を信じる気にはならないでしょうね。とはいえ、そういうことなのです」。 ↩︎

  2. タイトルを直訳すれば『賢い選択、適切な感情』とでもなろうか。 ↩︎

2020年5月7日
2021年8月14日
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