規範的な言説と記述的な言説との区別の再構築について議論。
Preface
この本は、「いかに生きるべきかという問いはどのような問いか」ということについての本である。基本的には、ブラックバーンの準実在論の立場に依拠するが、ブラックバーンが同意しないような帰結を含む。
3. Planning and Ruling Out: The Frege–Geach Problem
ホームズの話に戻ろう。ホームズは、モリアーティが近づいてきたとき、いま荷造りを始めることに決める。彼の意思決定をわれわれは命令的に表現して理解できる。すなわち荷造りを始めることに決めることは、事実上、彼自身に「いま荷造りしろ」と命ずることにほかならない。「荷造りしろ」と、「荷造りすべきときだ」とか「いま私は荷造りしなきゃいけない」という直接法の文とのあいだには、それほど違いはないけれども。命令文の輸入は、これら記述的に見える主張のうちの一つを輸入することと似ているかもしれない。すると、意思決定を二つの仕方のどちらで表出しうると考えることができるだろうか。意思決定を表出する文にとってのわれわれの正規の形式として、「荷造りはいま為すべきことである(the thing to do)」というのを選ぼう。われわれは、「為すべきことである」というこの述語を、意思決定を表出するための装置として説明できるだろうか。
そうすることは、フレーゲ゠ギーチ問題を生じさせる。われわれがそうした述語をもつとすると、そうした述語は非常に様々な文脈に関わってくる。ホームズは自身に次のように言うことができる。
- (1) 荷造りはいま為すべきことであるか、または、そろそろどのみち電車に乗るには遅すぎるかだ。
彼はこの選言文を論証のなかに含めることができる。
- (2) 電車に乗るには遅すぎるということはない。
これと (1) を合わせて、次の結論が導かれるように思われる。
- (3) 荷造りはいま為すべきことである。
結論 (3) を、われわれは真理条件によってではなく意思決定の表出として説明してきた。すると、われわれは (1) の選言文をいかに説明するのか。
フレーゲ゠ギーチ問題は解決可能だと私は主張する。よい解決策が、ここ二十年のあいだに現れてきた。この解決策は不自然で身の毛がよだつように見えはするけれども。私はむしろ、表出主義者が埋め込みの問題を解くのに用いることができる手段は自然なものであり、またその手段は、まったく同じ仕方で記述言明にも適用できると主張する。ホームズの用いた選言的三段論法を取り上げよう。この型の推論はなぜ記述言明にもうまく働くのだろうか。これに対する適切な答えは、そして同様の答えは、記述と意思決定を織り交ぜた言明にも適用することができるだろう。
本章では、わたしはこの解決策の最初の定式化を与え、それからそれを精緻化する。次章では、私はこの解決策に対する反論者が指摘するかもしれないいくつかの問題を探求し、選択と計画立案についての一体何がその解決策をうまくいくようにするのか尋ねる。このすべては、長い二段階の論証の第一段階を形成する。すなわち、論証は意思決定を命令的に読む見方から始まり、実践的実在論――為すべきことは実在するとする実在論――を模倣することで終わる。それは、ムーアやユーイングの非自然主義的道徳的実在論を模倣し、いくつかの点で自然主義的道徳的実在論を模倣する。論証の第二段階は、第五章から始まる。フレーゲ゠ギーチ問題の解決策から私は議論を始め、結論は規範的実在論の教義に聞こえるものに従う。私は次のように論ずる。為すべきことであることは、自然的性質に付随する、と。そしてさらには、為すべきことであることを構成する性質が存在する、と。
実際、遥かに多くのことが導かれる。そして、これら帰結はさらに先の章の主題となるだろう。何かが為すべきことであることは、世界の出来事を説明できる。すなわちそれは、なぜ私は自分が為したことをしたのか説明することができるし、私がしなかったときあなたがなぜ驚くのかを説明することができる。結果として、何を為すべきかの判断は、ある仕方で、知覚や理解のように振る舞う。もっともその判断は、他の仕方では別様に振る舞うけれども。本書の第三部では、私はわれわれが実際にもつ概念に取り組む。他の著作でも私は、分厚い概念や道徳といった異なる種類の規範的価値についての仮説に触れた。部分的には、私の扱いは可能性の証明だろう。フレーゲ゠ギーチ問題への解決策を武器に、われわれは[分厚い]概念を表出主義的に説明する可能性を見ることができ、またそうやって説明されたある概念は馴染み深い規範的概念との興味深い類似をもつことに気づくことができる。これらの次のいくつかの章での作業は、今後の多くの基礎となる。
私が解明するだろう概念は、われわれの現実の規範的概念――すなわち、為すべきことであるという概念とか、価値の概念とか、そういった概念――であるとしよう。とりわけ、私が道徳的概念を(これら概念が明らかである限りにおいて)表出主義的に説明することに成功したとしよう。すると、様々に異なった「道徳的実在論者」たちが自身の立場を特徴づけるために言う事柄のほとんどは、私が受け入れ説明できるような事柄である、ということが導かれるだろう。最近の哲学における「道徳的実在論」についての議論のほとんどが、その立場[道徳的実在論]と私の表出主義とのあいだの違いに関して無関係であることが判明する。道徳的実在論者として自身を見做す人々は、おそらくそうした結果を歓迎すべきである。すなわち、彼らが強調する主張の多くは、単なる「われわれが考えること」よりも多くの基礎をもつことが判明する。道徳的実在論者は、もし彼らがその最重要の主張の支持者としてそう願うならば、私を仲間として歓迎することができる。しかし、われわれは規範的概念の理論が説明しなければならない多くの現象に同意するけれども、これら現象を私が説明する仕方は独特のものだろう。私は、さもなければわれわれが規範的領域の生の特徴にしか帰属できないような保証と価値の側面を説明すると主張する。
Disjunction as Ruling Out: Decided States
ホームズの選言的主張をわれわれはいかに理解しうるだろうか。
- (1) 荷造りはいま為すべきことであるか、または、そろそろどのみち電車に乗るには遅すぎるかだ。
(1) を受け入れることそれ自体は、命令文を受け入れることではない。(1) は、為されるべき性を含むが、それを明白に示しているわけではない。それはホームズに直接、何を為すべきかを伝えているわけではないのだ。われわれが見てきたように、それは何を為すべきかについての彼の推論に違いをもたらしうるけれども。(1) に加えて (2) を前提に置くとしよう。
- (2) 電車に乗るには遅すぎるということはない。
すると、彼は (3) の実践的帰結を得る。
- (3) 荷造りはいま為すべきことである。
われわれはこの (3) を、何を為すべきかを言うものとして説明する。
(1) のような選言文を受け入れることでホームズは何をしたことになるのだろうか。実際、私は何らかの選言文を受け入れることで何をしたことになるのだろうか。私は可能性を除外している。周知の通り、AまたはBという選言文は、AとBが両方とも偽である場合を除外する。除外の力とは次のようなものだ。もし私がAまたはBを受け入れるのであれば、私はAを拒否しかつBも拒否することができないようになる。故意に、あるいは自分の思考を見失うことで、考えを変えるのでない限り。
[A∨B、¬A、ゆえにB。という推論が成り立つ理由。A∨Bは、Aを拒否しBを拒否するようになるのを除外する。¬Aは、Aを拒否する。よって、Bを拒否するのを除外する、というふうでなければならない。もしそうでなければ、自分が選択肢から除外したはずのことを行なうことになって不合理。]
この説明は、選言的推論が記述的な用語で言い表されているかどうかとは関係なく適用できる。記述的な選言文にも適用できるし、ホームズの推論にも適用できる。ホームズが (1) を受け入れるならば、彼は (i) 電車に乗るには遅すぎることの拒否、および (ii) 荷造りすることに決めることの拒否、の両方をする、というのを除外する。(2) で、彼は電車に乗るには遅すぎることを拒否する。したがって彼は荷造りすることに決めることの拒否を除外する。
「除外する」とか「拒否する」といったこれら状態は、何を意味するのだろうか。単純な信念を考えよう。神への信念を拒否することは、神が存在するという信念に反対する(disagree)ことである。確信した不可知論者はそうしたものではない。彼女は神への信念を避けるし、神への不信も避けるけれども、彼女は神への信念を「拒否」しはしない。彼女は、神が存在するという信念に対して、賛同も反対も差し控えるのだ。荷造りも同様だ。荷造りすることに決めることを拒否することは、荷造りするというどんな意思決定に対しても反対することにほかならない。ホームズがいま荷造りすることを拒否するとき、彼は荷造りすることに決めることを避けるだけでなく、彼は荷造りへの反対を表明することになる。では「除外する」のほうはどうか。神への信念を除外することは、神への信念を拒否することに自らをコミットさせることにほかならない。荷造りを除外することは、荷造りを拒否することに自らをコミットさせることにほかならない。ある心的状態の推論的意味は、その心的状態に達することにおいて引き受けることになるコミットメントの問題である、とわれわれは言ってみることができる。むろん、これらすべてについてもっと多くのことを言う必要があり、次章で私はいくつかの問題に直面することになる(一つには、コミットメントの概念はそれ自体、規範的概念だからというのがある。規範的概念は推論の任意の規範的取り扱いを必要とするように思われる。同様に、選好から荷造りすることは、無差別から荷造りすることを選ぶこととは異なるのであり、私は差し当たりこの区別をごまかしている)。ここでは、より大きな問題は後回しにして、次の大雑把な考えを追求することにしよう。(i)人は行為に反対しうるし、そうした反対に反対しうるし、以下同様のことが言える。そして、(ii)ある心的状態は、それが別の何らかの心的状態を除外するという点で、推論的意味をもつ。
そうした推論的意味を追跡する方法をもつことは役に立つだろう。われわれはいかにして選言文(や他の形式の文)の推論的意味を記号化できるだろうか。ホームズの選言文(1)は、何かを除外する。すなわちそれは、記述と意思決定に関する――物事がどのようであるか判断することと何を為すべきかを決定することとに関する――複合的な心的状態を除外するのである。二つの問題が影響を及ぼしている。一つは物事がどのようであるかという問題、もう一つは何を為すべきかという問題である。すなわち、(a)電車に乗るのは遅すぎるかどうか、そして、(b)荷造りし始めるべきかどうか、だ。これは、関連する安定した四つの可能な組み合わせ――もしホームズがこれら問題に対して心を固めたならば彼が至るだろう四つの組み合わせ――を生み出す。
- CLP:遅すぎると信じ、かつ、荷造りすることに決める。
- CLp:遅すぎると信じ、かつ、荷造りすることに決めることを拒否する。
- ClP:遅すぎるわけではないと信じ、かつ、荷造りすることに決める。
- Clp:遅すぎるわけではないと信じ、かつ、荷造りすることに決めることを拒否する。
これらは、もしホームズが何を信じるべきかと何を為すべきかの両方を決定したとき彼が取りうる心的状態であるので、私はこれらを決定状態と呼ぶことにする。われわれはいまや、これら決定状態のうちどれが除外されどれが除外されないかによって、選言文(1)の内容を表現することができる。この選言文は、他の三つの決定状態CLP、CLp、ClPのどれをも除外しない。ある判断がある決定状態を許容するのは、その判断がその決定状態を除外しないときかつそのときに限る、と言おう(ある判断がある決定状態を「許容」するとは、その判断がその決定状態を除外することを排除することではない。その判断はそれ自体ではその決定状態を除外しないというのが正しい)。したがって、われわれは選言文(1)の内容を、{CLP, CLp, ClP}という、(1)が許容する決定状態の集合によって表現することができる。(1)は、これら以外のすべての決定状態を除外する。すなわち(1)が除外するのは、Clpというただ一つの決定状態である。
われわれはまた、このすべてを、人が考えを変えるかどうかという観点からも説明することができる。CLP、CLp、ClPという決定状態は、選言文(1)についての考えを改めることなく――(1)に反対するようになることなく――ホームズが至ることができるだろうような決定状態である。
したがって、決定状態は真理条件のはたらきと同型な仕方ではたらく。すなわち、決定状態を許容したりしなかったりする構造は、明確な条件のもとで真であったり偽であったりする構造と同じである。選言文が真理関数的結合子として扱われうるのと同じように、われわれは選言文を「許可関数的」結合子として同じやり方で扱うことができる。「t」を真、「f」を偽と解釈した表の代わりに、われわれは「t」が許容、「f」が除外を意味するような表を構築することができる。したがって、真理条件について言われる標準的な事柄は、この新しい話し方に引き継がれる。例えば、選言文がある決定状態を許容するのは、その構成要素のうち少なくとも一つがその決定状態を許容するときかつそのときに限る。推論が妥当であるのは、前提すべてが許容するのに結論は許容しないような決定状態が存在しないときかつそのときに限る。
実際われわれは、言うなれば、心的状態に関する語りとその「内容」についての語りとのあいだを行ったり来たりすることができる。これは、意思決定と信念の両方に対して成り立つ。意思決定の観点から話す代わりに、われわれはそれがもつある種の内容の観点から話してもよい。というのも、意思決定はある仕方で内容をもつからである。ホームズの意思決定の内容は、荷造りすることであると言ってよい。すると彼は、この意味で、意思決定の内容を遅すぎるわけではないという信念の内容と結びつけることができるだろうか。これらは、ホームズが決めるだろう二つの事柄であると思われる。すなわち、荷造りすること、および遅すぎるわけではないということ、である。これは、荷造りするかどうか、および、遅すぎるかどうか、を決めているような心的状態の内容として理解可能である。この、意思決定的内容と事実的内容の極大に具体的な組み合わせを、われわれは事実実践世界(fact-prac world)と呼ぶことにする。それは、事実的条件を意思決定の内容と結びつける。選言文(1)はとりわけこの事実実践世界で成り立つ、と言える。そして、人が(私が呼ぶところの)ある心的「決定状態」にあるのは、ある事実実践世界がその人の信念・意思決定の結合の内容であるときかつそのときに限る。
だが、この非標準的な意味での「内容」についてのそうした語りは、選択が自由である。われわれは、私が最初にしたように、そうした内容とそうした世界の観点からではなく、代わりに、ある判断が許容し別の判断が除外するような心の決定状態の観点から語ることができる。私が強調してきたことだが、われわれはこれを純粋に記述的で事実的な場合にさえ行なうことができる。雪が白いか炭が黒いかだという考えを取り上げよう。これは雪が白いという考えと炭が黒いという考えの両方を拒否することを除外する。それは、雪が白いかどうかと炭1が黒いかどうかに対する他のすべての心の決定状態を許容する。つまり、単純な記述的信念と意思決定の両方に対して、われわれは二つの異なる仕方で真理関数の構造を適用することができるのである。二つの異なる仕方とは、一つは、事実的ないし意思決定的でありうるようなある種の内容の観点であり、もう一つは、心的状態の観点である。どちらにせよ、同じ構造が現れる。一つの解釈では、それは様々な心の決定状態を許容したり除外したりする構造である。もう一つの解釈では、それは様々な「世界」において成り立ったり成り立たなかったりする構造である。
標準論理は事実を必要とするとしばしば思われているし、論理を人の思考に適用するためには、思考は事実の記述でなければならないとしばしば思われている。だが、意思決定もまた推論を許容するし、ある意味で意思決定は内容をもつ。意思決定に至ることは事実に関する特別な種類の結論に至ることにほかならない、と考えることなしに、われわれはこれらの事柄を受け入れることができる。
Contingency Plans
朝7時、ホームズは、荷造りするには早すぎると判断を下す。正午、彼は、いま荷造りすることは為すべきことであると判断する。結局のところ、彼の古い親友であるエドウィンがわれわれに言うように、
人は一日中朝食を食べることはできない
それは罪人の行為ではない
朝食が片付けられるとき、
彼の注意は夕食へ向かう。
ホームズは最初からずっと8時に荷造りし始める計画を立てていたかもしれないし、彼はモリアーティが近づいているという言葉を聞いたときい荷造りを始める計画を立てたかもしれない。対照的に、花嫁を振った率直でないエドウィンは、確かに考えを変えたのである。恋煩いする少年として彼は彼女とすぐに結婚する計画を立てた一方、やがて彼は考えを変えて約束を破ったのだ(完全な詐欺師としてのモリアーティは、考えを変えることなく約束を破ることができたかもしれない)。
したがって、何を為すべきか考えることにおいて人が固執したりしなかったりすることは、次に何を為すかの固定的な方針なのではなく、計画なのである。信念についても同様である。ホームズは7時に〈モリアーティはまだ遠い〉と考え、正午に〈モリアーティは近い〉と考える。この場合もまた、ホームズは自身の考えを変えなかったのである。モリアーティは、ホームズが予想した通りに行動している。ある意味で、ホームズはまず先にあることを正しく信じ、そして後に別のことを正しく信じている――しかし別の意味では、彼は最初から同一のことを信じているのである。
人々は信念に対して賛同したり反対したりすることができるし、人々はある意味で計画に対して賛同したり反対したりすることができる。これは定式化において注意を要するだろう。ホームズは〈モリアーティは近くにいる〉と考え、ハドソン夫人は〈モリアーティは遠い〉と考える。この場合、もしこの二人が互いに離れたところにおりそれを二人とも知っているとすれば、二人は不一致に陥っているわけではない。同様に、もしホームズが荷造りを始めることに決め、ハドソン夫人は就寝することに決めるならば、彼らはそれによって何を為すべきかにおいて不一致に陥ってはいない。ハドソン夫人は、ホームズの置かれた状況で何を為すべきかについて、ホームズに賛成しうる。ホームズの置かれた窮状において、為すべきことは荷造りを始めることである、ということに彼らは同意しうる。同様にホームズは、ハドソン夫人の状況では為すべきことは寝ることであるということについて、ハドソン夫人に賛成しうる。他方、彼らは何を為すべきかについて純粋に意見を異にしうる。例えば、ハドソン夫人は〈ハドソン夫人にとって為すべきことはまっすぐ警察に行くことである〉と考え、逆にホームズは〈ハドソン夫人にとって為すべきことは、家にいて、厚紙でできたホームズのシルエットを窓の日よけに映し出すことである〉と考える、ということがありうる。
計画を作り上げるこれらの思考とはどのようなものだろうか。ホームズは前もって、モリアーティが近づくとき荷造りを始めるという計画を立てる。彼は不測の事態に対しても計画を立てる。例えば彼は、もし自分の馬車が尾行されていることに気づいたならば何を為すべきかについて計画を立てることができる。その場合、彼は馬車から飛び降りて茂みに入り、御者にはそのまま駅まで疾走させるという計画を立てる。そうした不測の事態に備えた計画の立案には二つの側面があるが、私が主に関心をもつのはそのうち一つだけである。第一は、もし不測の事態に直面したならば彼は何を為すべきかを自身に尋ね、そして答えに至る。言うなれば、彼はその不測の事態において何を為すべきかに対する見解に至るのである。第二は、その物事はもし不測の事態が生じるならば彼が本当に為すだろうことである、と彼は予想する。彼は、自分のいまの考えが後に起こることを決定すると予想するのである。もし彼が自分が尾行されていることに気づくならば、彼はすでに何を為すべきかを決めていただろう、よって彼は前の計画に従って行為するだろう。彼は不測の事態Cにおいて何を為すべきかの見解に至り、〈もし不測の事態Cが生じるならば自分はいま形成したその見解に基づいて行為するだろう〉と彼は予想する。
私が主張してきたことだが、ホームズはまた、ハドソン夫人の窮状に直面したとき何を為すべきかを考えることができる。確かにある意味では、これは本格的な不測の事態に備えた計画立案ではない。まず第一に、彼はハドソン夫人の置かれた状況と細部に至るまで同じ状況に陥ることは決してないだろうと確信している。第二に――二人がその夜連絡を取り合っていないならば――、自分自身の思考はハドソン夫人自身の心のなかにある何を為すべきかの問いを解決することは決してできないということを彼は知っている。ハドソン夫人はホームズの考え――いま従事している計画立案に基づいて後に彼が行為しうる仕方――に基づいて行為することは決してできない。それにもかかわらず、これはある意味で、ある種の仮説的な計画立案である。彼は、仮説的な状況にいるとしたならば何を為すべきか、を考えている。彼は、もしハドソン夫人の窮状に陥ったならば何を為すべきかの計画を立てることができるかのように考えており、実際、不測の事態に備えた計画立案の一つの側面は十分に環境が整っている。彼は、もし彼女の状況にいるならば何を為すべきかについて考えており、そして答えに辿り着いているのである。
したがって、私の関心の焦点は、ある状況――決して陥ることがないことをよく知っているかもしれない状況でさえ――において何を為すべきかについての見解に至ること、にある。〈ハドソン夫人の状況では、為すべきことはシルエットを映し出し家にいることである〉とホームズが考えるとき彼がしていることは何か。これらの思考をある特別な性質――すなわち為されねばならない性とか為すべきことであることという性質――についての信念として説明するということは、私は(少なくとも最初は)したくない。そして、われわれはその必要はない。ホームズの思考は、現実の、および仮説的な計画立案に関わる種類のものとして理解可能である。いわば、ホームズは、ハドソン夫人の立場では何を為すべきかについて仮説的に計画立案をしているのである。これは、計画立案の一部として理解可能である。本当の意味では、人は、もし不測の事態が生じた場合には自分が何を為すべきかについての現在の発見に頼ることを期待するときに、不測の事態に備えて計画する。
文献
- Gibbard, Allan. Thinking how to live. Harvard University Press, 2003.
- Gibbard, Allan. “Précis of Thinking How to Live” Philosophy and Phenomenological Research 72(3), 2006, 687–698.
- Gibbard(2006)Thinking How to Liveの主張をまとめる - 書録
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原文だと「snow」だが「coal」の間違いか。 ↩︎