哲学覚書

Précis of Gibbard (1990) の覚書

いかなる人間も、いかに生きるべきか自問する。崇高にとまではいかなくとも、詳細に、自問する。事実上これは、どのように生きるのが合理的かを問うことである。この問いは、部分的にもしくは全体的に、道徳的な問いかもしれない。道徳性というものがもしあるとすれば、どのような種類の道徳性が、注意を払う価値があるだろうか――そしていかに完全に[注意を払う価値があるだろうか]。私は『賢い選択、適切な感情』で、これらの問いを直接には取り上げない。むしろ私はこれら問いについて問う。これら問いに頭を悩ませるとき何が問題となっているのか。規範語――「合理的」や「道徳的に悪い」のような語――は何を意味するのか。この本は四部から成る。I. 規範概念の分析。II. 自然の一部としての意味と情動。III. 規範的客観性。IV. 道徳的探求――もし本書の理論が正しいとしたら道徳的探求はいかに実行されうるか。

I. Analyses.

狭義には、道徳的問題は道徳感情の合理性についての問題である、と私は論ずる。大まかに言うと、ある行為が道徳的に悪いのは、その行為をした人が罪悪感を感じ、また他人がその人に腹を立てる、ということが合理的である場合である。そこで私は「合理的」は何を意味するかを述べなければならない。われわれは、行為が合理的であるとかないとか評価するばかりでなく、信念や感情についてもそれが合理的かどうか評価する――そしてもし可能なのであればこれら評価を理解するのはよいことであろう。それ[合理性の評価]は、ある特殊な規範的性質についての事実を信じることに存するのではない、と私は提案する。むしろ、何かを合理的だと言うことは、それ――行為や信念や感情――を許可する規範体系を人が受容していることを表明することにほかならない。

では、規範を受容するとはどういうことか。私はこの問いに、規範受容についての思弁的な進化心理学を用いて取り組む。いかなる種も、繰り返し進化交渉状況(evolutionary bargaining situations)――広義にゲーム理論家の言う意味での協調を要求するような状況――に直面する。われわれのような、言語的で複雑に社会的な種は、言語に満ちた(language-infused)協調メカニズム――人間の規範受容に似た働きをする――を進化させる、と予想することができるだろう。これらメカニズムの主要な生物学的機能は行為を協調させることであろう――部分的には、信念や感情を協調させることによって。規範の受容は、このような心理学における位置によって説明されることになる。

これらの第一次近似は、次に、改良に道を譲る。この理論の最初のバージョンは多くの問題を残している。これら[問題]は、観察者と被験者の無知、規範的判断の伝達(communication)、全員の規範的素朴さ埋め込み文脈や規範語の他の非帰属的な用法――すなわち「フレーゲ・ギーチ」問題、に由来する。一旦これらすべての問題に取り組むために、私は「事実規範世界」という形式的道具を開発する。この道具は、規範言明によって除外される事実と規範の組を表象する方法を与えるものである。規範言明は、その内容を、使用者が認識する推論関係から得る。これにより、意味経験(sense ecperience)と、私が規範的統制(normative governance)と呼ぶ特別な種類の動機づけとが、もたらされるのである。

II. Psyche in nature.

本書を通しての私の主要な目的の一つは、規範的判断や道徳感情を自然現象として扱うことである。本書のこの部は、心的表象情動とについての独立の議論から成る。私は、「自然的表象(natural representation)」の理論を詳述し、もし私の進化論的思弁が正しい方向を向いているならば、規範的判断はその内容を自然的にも人工的にも表象しない、ということを論ずる。私は、情動の「判断」理論を拒否し、二種類の選択肢――「適応症候群(adaptive syndrome)」理論と「帰属」理論――を提案する。私は、この二つの理論の選択に影響を与えるだろう民族誌的な証拠を当てにする。どちらの理論も、罪悪感のような道徳感情を、道徳的概念の事前の理解に頼らずに特徴づけることを可能にする。

III. Normative objectivity.

何かを合理的だと言う人は、彼の判断に対するある種の客観性を主張している。私は、そうした主張の三つの構成要素を特定し、それぞれに対して表出主義的な説明を与える。(i)発話者は、判断の妥当性を誰がそれを受け入れるかとは独立なものとして扱う。(ii)発話者は、彼の判断を全員が受け入れることを命ずるような、高階の規範の受容を表明する。(iii)発話者は、彼の判断に対する権威を主張する。規範的権威の問題とは、規範的判断をする代わりに会話的要求(conversational demands)をしたりそれに応じたりするためにはどのような規範を受け入れるべきかという問題だ、と私は提案する。複雑な圧力がそうした規範のどれを受け入れるべきかに関係するだろうし、これら圧力を調停させる高階の規範は複雑な構造を呈するかもしれない。これら規範は、いかに共に生きるべきかの限定的な問いについての判断をする広い共同体とともに、そして価値についての深い問題についての判断をするより親密な共同体とともに、判断をある程度社会的なものにするだろう。とりわけ、私は合理性の規範と保証の規範とを区別し、また、かなり問題のない種類の相対主義と規範的判断に与えられる別の立場――すなわち共同体に偏狭であること――とを区別する。

IV. Moral inquiry.

もし、私が描いた規範的探求の描像がおおよそ正しければ、道徳の向上には大きな違和感はないだろう。最高の道徳的探求は、規範を、その実用的価値と直観的な妥当性の両方で評価する。広く道徳的な関心の源は多様であり、時には矛盾することもある。だが、われわれは規範的探求においてシステムに向かって圧力をかけられる――つまり、われわれの感情を和解させそれに従って行為を統制するだろう規範に対して圧力をかけられる。規範的判断は結局のところ推論的コミットメント生み出すのであり、このコミットメントがわれわれをどこに導いてくれるのかを知ることは役立つ。私は、道徳理論における広く構造的な問題群――道徳的であるべきかどうか、なぜ道徳的であるべきか、罪悪感と怒りは同じケースで正当化されるのかどうか、道徳性は価値あるものであるかどうか――を検討することで、どのように探究を始めることができるかを説明する。最後に私は、道徳体系の展望について述べて終わる。規範的な哲学的探求は多様な圧力に対応するための並々ならぬ努力で成り立っており、哲学者たちは、われわれの考えのなかにある様々な矛盾を打ち破り、それらを調和させるための巧妙な策略を開発してきた。私は、このような戦略を用いて、道徳的な探求が、われわれの広範な道徳的衝動の受け入れ可能な体系的解決に向けてわれわれを導くことができるのではないかと、ささやかな期待を抱いている。

文献

  • Gibbard, Allan. “Précis of Wise Choices, Apt Feelings.” Philosophy and Phenomenological Research 52, no. 4 (1992): 943–45.
2021年3月26日
2021年8月14日
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