哲学覚書

Précis of Gibbard (2003) の覚書

することの事実(fact of what to do)は存在しないように思われる。為すべきことについてはまた別の事柄だ。為すべきことの事実が存在するかどうかについては意見が割れている。本書の仮説は、これら二つのものが同じものに相当する、というものだ。すなわち、何を為すべきかという問いは、何をするか[=何をすることにするか]という問いにほかならない。何を為すべきか考えることは、何するか考えることにほかならない。べきの概念は、このパターンで説明できると私は提案する――語のすべての意味についてではないが、規範的概念に特徴的な重要な意味については、このパターンで説明できる。例えば、道徳的概念や、合理的である、信頼できる、恥ずべきである、妬ましい、といった概念を、このパターンで説明できるのである。例えば、何が称賛に値する(admirable)かを考えることは、何を称賛するか考えることにほかならず、何が信頼できるか考えることは、何を信じるか考えることにほかならない。したがって、規範的概念には、何ら特別な謎はない。われわれは規範的概念を説明するのに「非自然的性質」に訴える必要はないのである。何をするか結論づけることを理解するならば、われわれは、何を為すべきか結論づけることを理解することになる。

では、ベキたち(oughts)は事実の問題なのだろうか。最小主義的な意味で「事実」という語を使うとすれば、むろん、人が何を為すべきかの事実は存在すると言える。本書では私は、「事実」という語のより要求の厳しい意味が存在するかどうかとか、語「真である」が最小以上の意味をもつかどうかとかといったことについては、触れないでおく。ともあれ本書の狙いは、することの事実は、多くの側面において、馴染みがあり論争の生じないような事実と同様の仕方で振る舞う、ということを示すことである。すると、これら事実は非自然的なのだろうか。この最後の質問への端的な答えは、われわれに多くのことを教えないであろう。この質問は区別を切に必要としている。

以前の本『賢い選択、適切な感情』(1990年)から、私は中心的なテーゼを保持したままである。だが私は、より乏しい資源とともに説明を始め、さらなる結論を導き出した。以前の説明では、私は思弁的な試みを、現実的・自然主義的なヒトの心理学のなかに位置づけた。本書では単に、計画する者――現在および不測の事態において何するか考えることのできる者――としてのわれわれから出発する。このありのままの開始点から、おなじみの規範的現象が出現する。われわれは、ベキたちがいかにして自然的なデアルたちに「付随」するかが分かるのである。ある種の自然主義がさらなる帰結である。唯一のすることであることを構成するような、広い意味で自然的な性質が存在する、と私は結論する。結果として得られる体系は、G・E・ムーアやA・C・ユーイングの非自然主義を非常によく模倣したものになる。私は本書が、サイモン・ブラックバーンが言うところの準実在論の一形態を実現するものであると考えている。準実在論は、基礎においては、規範的事実を除外し、人間性を自然的世界の一部として扱う。準実在論はそうした基礎から出発して、規範的実在論者の主張と同様に振る舞う規範的概念をわれわれはなぜもつのかを説明する。とりわけ私は、このような進め方に批判的な人々が抱いてきた反論に対処している。

II. The Thing to Do

5. Supervenience and Constitution

本章は、「唯一のすること(the thing to do)」という語りに対する、ブラックバーンの言うところの「準実在論」のさらなる側面を発展させる。何するか考える者は誰でも、付随性テーゼ(Supervenience)と事実構成テーゼ(Factual Constitution)という実在論に聞こえるようなテーゼにコミットしている、と私は論ずる。これらテーゼは、すべての推論に適用されるコミットメントの原理から導かれる。コミットメントの原理とは、「ある人がある主張にコミットしているのは、考えを改めることなく到達可能なすべての超状態においてその人がその主張を受け入れる場合である」というものだ。この原理から、次が導かれると私はまず論ずる。すなわち、計画者は付随性にコミットしている――つまり、唯一のすることであることは客観的事実に付随するということを受け入れることにコミットしている――ということが導かれるのだ。〈必然的に、もし二つの状況が何が唯一のすることなのかの点で異なるならば、その二つの状況は客観的事実の事柄において異なっている〉という意味で、それ[=唯一のすることであること]は、[客観的事実に]付随するのである。コミットメントの原理はまた、計画者は事実構成テーゼの主張にコミットしているとも私は論ずる。事実構成テーゼとは「唯一のすることであることを構成する客観的に事実的な性質が存在する」というテーゼだ。唯一のすることであることを構成するとは、唯一のすることであることに必然的に同等(equivalent)であることにほかならない。それゆえ、任意の可能な状況において、ある行為が唯一のすることであるのは、その行為がその性質[=唯一のすることであることを構成する客観的に事実的な性質]をもつちょうどその場合である。その性質は認識的に基礎づけられるだろうし、それゆえその性質は広い意味では自然的性質であろう、と私は論ずる。だがそれでも、ある行為を「唯一のすること」だと言うことはそうした性質を帰属させることではない。私は、名辞や「濃い」理解がこのテーゼに適合するかどうかを議論し、適合することを見出す。

したがって計画者は、性質についての自然主義と概念についての非自然主義にコミットしている。唯一のすることにとって、その概念は非自然的であるが、その性質は広い意味で自然的である。何するか考える人は誰でもこの主張にコミットしている、と私は説明する――そして、一人の計画者として私は、自らがコミットしているその主張を、次のように言って表明するのである。唯一のすることであることという性質は広い意味で自然的性質である、と。それがどの種類の広い意味で自然的性質であるかに関しては、意味だけによっては解決されない。それは、いかに生きるかという実質的な問いなのである。例えば利己的快楽主義者は、それは利己快楽的(egohedonic)であるという性質、すなわち当該主体の全快楽にとって最大のプロスペクトを与えるという性質である、と考えることになる。こう考えることは、少なくとも整合的である――そして、それは間違いだと考えることもまた整合的である。これら二つの見解のうち一つは間違っていなければならないが、しかし間違っているのがどちらにせよ、その間違いは概念的なものではない。付随性テーゼと[事実]構成テーゼの主張は、直接に性質に関するものではなく、概念に関するものである。それ自体で計画含みであるような性質など存在しないが、しかしそれ自体で計画含みであるような概念は存在するのである。

III. Normative Concepts

6. Character and Import

前章まででは、思考の対象を命題として扱ってきた。命題とは、世界がそうあったかもしれない仕方として理解されるものである。これは不十分な扱いである。このことは次の馴染み深い例が示す。水=H2Oは水=水と同じ命題であるが、しかし後者を信じつつ前者を否定することは整合的である。本章では、私は思考の対象を表象するために「二次元的意味論(two-dimensional semantics)」を手短に体系化し、それを計画含みの概念に適用する。唯一のすることのような計画含みの概念と、唯一のすることを構成する性質という概念とについて、考えよう(利己快楽主義者は利己快楽的であることがその性質であると考えることになる)。この二つの違いは、水という概念とH2Oという概念とのあいだにある類の違いの単なる別の例であると考えられるかもしれない。ムーアは概念が異なりうるさらなる次元を指摘していたのだと、私は指摘する。

このすべてを表象するために、私は一連の専門用語を開発することにする。その専門用語によれば、事態(state of affairs)は文が表す(signify)ものであり、信念は文が伝達する(convey)するものであり、命題は文が喚起する(invoke)ものである。各々は、思考に対する特性行列(character matrix)の特徴として表象される。計画はさらなる次元を加え、われわれはいまや、思考や他の概念の拡張された特性(extended character)やその結果である拡張された意味(extended import)について語ることができる。語の拡張された特性は語の意味によって確立され、言語の規則によって決定される。その一方で、その(普通の)特性はその意味にではなくどう生きるかに依存するのである。例えば、もし利己快楽主義が正しいとすれば、「荷造りは利己快楽的だ」と「荷造りは唯一のすることだ」とは同じ特性をもつが異なる拡張された特性をもつ。もし完全主義者が正しいならば、この二文は単に異なる拡張された特性をもつだけでなく、異なる特性をもつ。

7. Ordinary Oughts: Meaning and Motivation

これまでのところ、本書は計画含みの判断に費やされてきた。これは、われわれが為し声に出すところの判断とどういう関係があるのだろうか。探求すべき仮説は、「べき(ought)」のような規範語は直接に計画を表出するというものかもしれない。私はもっと条件のついた仮説を強調する。規範的言語に対して、われわれは事実を計画と混ぜ合わせるのだが、どのように混ぜ合わされるのかはつねには確定されない、という仮説だ。本章と次章で、私は、計画含みの概念――そのうちいくつかはわれわれが実際にもつ規範的概念でありうる――を形成するような判断においてわれわれはいかに計画と事実を混ぜるのかのパターンを提案する。

再び、不同意が鍵となる。われわれは何が何と同意あるいは不同意するのかを追うことによって会話を「追う(track)」のであり、そしてそれにしたがって、私は分析の道具として同意と不同意のパターンを用いる。われわれは言語におけるある種のゆるみを予期せねばならない。ある探求の前提(presupposition)のもとで二つの主張が同義であるとき、どちらの主張が表明されているのかの明瞭な事実など存在しないかもしれないのである。例として、規範的な語りのなかで、喜びのみがそれ自身として求められるべきであるとわれわれが前提していると想像しよう。このとき、「よい」が「求められるべきである」を意味しているのか、それとも「喜びであるがゆえに求められるべきである」を意味しているのか、の明瞭な事実など存在しないかもしれない。「喜びのみがよい」は、第二の意味だと分析的となり、第一の意味だと総合的となる。喜びは必ずしもつねに求められるべき唯一のものではないと考える人は、そう考えるがゆえに「よい」という語の前提を拒否するだろう。すると、そうした人は「『よい』は私の言葉の一つではない」と言うべきである。われわれの倫理的議論や他の規範的議論は、いかに生きるべきかという問いにおける前提の背景を相手取って訴訟を起こすものであり、それゆえ自然的要素と計画的要素とがいかにわれわれの概念と言語において相互作用しているかの明瞭な事実はしばしば存在しないかもしれないのである。このことは、「よい」や「べき」のようなわれわれの語にとっても成り立つことであろう。

だがそれでも、もしある日常的な意味での「べき」が「唯一のすることである(is the thing to do)」を含意するならば、もっともらしくないことが導かれるのではないかと、われわれは心配するかもしれない[*要するに、内在主義はもっともらしくないのでは、という心配]。いじめっ子に逆らっていない限り、この意味で[=日常的な意味で]すぐに逆らうべきだとは私は思わない[*ギバード理論に従えばこうした内在主義が導かれる]。だが人は、しばしば自身の計画と意見が一致しないものだ[*つまり、内在主義の反例となる事実があるように思われる]。いざというときでしかもあなたがいじめっ子に逆らわない場合に、あなたはまさにその瞬間、すぐ彼に逆らうという計画を心のなかのすべての側面でしているわけではない。「べき」のある重要な意味では、あなたがまさにその瞬間いじめっ子に逆らうべきかどうかについて、すぐに、あなたは一つ以上の意見をもつ、と私は言う[*一見内在主義の反例に見える事実があることは認める、という主旨?]。1990年の著書『賢い選択、適切な感情』とは異なり、本書は「べき」の心理学についてではなくその論理と認識論についての本である。何が計画の受容を構成するのかの明瞭ではっきりとした事実はしばしば存在しないかもしれないが、しかし、ある心的状態が行為を導くことにおける正しい体系的な役割を通常担っていなかったならば、その心的状態は計画状態(planning)に相当しなかっただろう。「べき」の判断についても同様だ。アイラという人について、彼の「べき」の主張は厳格な道徳家に一致するが、彼の行為と動機は「べき」の利己主義的快楽主義者と一致する、としよう。すると彼は、われわれは何を為すべきかについての道徳家の信念をもっているかのように猿真似しているだけだということになる。彼は、利己主義者の「べき」の用法と一致する別の語――例えば「するのがよい(should)」――を用い、自分が何を「するのがよい」か結論することによって自身を導く、ということさえありうる。そのような場合、彼の「するのがよい」という語は、残りのわれわれが交換可能な仕方で「べき」と「するのがよい」によって意味していることを意味しており、そして彼の「べき」という語はそのようなことを意味していない、ということになる。利己主義に対する彼の論争は字面上だけのもの(only mouthed)であって、彼の実際の論争――いかに生きるべきかについての論争――は道徳家に対して生じているのである。[*結局、内在主義を擁護している。日常語としての「ベキ」が内在主義的に機能していないような人がいたとしたら、その人は記述的な意味で「ベキ」という語を用いているだけなのであり、ギバードの説明したい「ベキ」という語とは異なる語を使用しているのだ、ということになる。]

8. Normative Kinds: Patterns of Engagement

本章では、計画含みの概念が取りうる別の形式を探求し、超決定状態という概念装置を用いて、われわれが他者の計画含みの思考とどのように噛み合ったり噛み合わなかったりしうるかを描写する。私は「濃い概念」についてのバーナード・ウィリアムズの扱いのいくつかの側面の代替を提供する。

ジェフリー・セイヤー゠マッコードは、「道徳種名(moral kind terms)」の理論を提案している。「道徳種名」とは、振る舞いにおいて自然種名(natural kind terms)と類比的な語である。私は彼の提案を拡大して「規範種名(normative kind terms)」について語り、規範種名がいかにして計画含みの語として機能しうるかを探求する。規範種理論家は、〈「良識ある悪漢(sensible knave)」や無頓着な「非合理主義者(irrationalist)」がわれわれの規範的概念を完全に共有していながらそれらの語によってはまったく行為を導かれないということがありうる、と考える、強硬派の外在主義者〉である必要はない。われわれは、ある種――例えば、残酷さ――を、それがわれわれの計画的説明(our planning explanation)において中心的な関わりをもつ場合には、規範的に「上等(high grade)」なものとして、つまり、ある言語におけるある名辞が示す(signify)ものに対するよい候補として、扱う。残酷な行為は、残酷であるがゆえに敬遠され、非難されるべきであるとわれわれは考える。「残酷である」の意味は純粋に記述的なものではない。行為を非難するのではなく、称賛するために使われる異国の言葉は、その使用者が主に残酷な行為に適用したとしても、「残酷」を意味するものではない。残酷さを意味する言葉は、その使用者が何に反対するかを説明する際に、適切な役割を果たさなければならないからである。

ウィリアムズは「距離の相対主義(relativism of distance)」について語った。時間的にも場所的にも民族的にも遠く離れた人々の考えと――彼らの考えを同意あるいは不同意の対象として扱うことで――ときにわれわれがどのように噛み合うことができるかもしれないのかについて、私は探求する。われわれはいつ、たとえ自分の疑問を残さずに済んだとしても、異国の「濃い」語で表明された思考に同意も不同意もせずに決定を留保しなければならないのだろうか。われわれはむろん、〈遠い時代や場所、例えば青銅器時代の酋長の立場で、何をなぜ為すべきか〉を問うことはない。しかし、文化的な距離が大きく離れていても、努力すれば、またわれわれが考えている人々について十分に知っていれば、そうすることができるかもしれない。そして、彼らの規範種の概念を、彼らの状況に適用されているとき、われわれは拒否するかもしれない。これが最もありそうな可能性である。しかしわれわれはまた、そのような場合には、彼らの概念をわれわれ自身のものとして採用することもあるかもしれない――おそらくは、われわれ自身の状況に適用するためではなく、彼らの状況に彼らの概念を適用し、彼らの主張に同意したり不同意したりすることに参加するために。彼らの概念を彼ら自身の選択に適用できるものとして扱うかどうかは、いかに生きるか、そしてなぜそう生きるかという仮説的問いである。それは、彼らとちょうど同じような不測の事態において、彼らのエートスをもち、彼らの文化的状況のなかで、いかに生きるかという問いなのである。

9. What to Say about the Thing to Do: The Expressivistic Turn and What It Gains Us

複雑で計画含みの概念が機能しうる、検討中の様々なパターンがあるなかで、私の仮説は、われわれの規範的概念は何らかのそのような仕方で機能しているだろう、というものである。それらは計画に基づいているが、おそらく複雑な方法で機能しているであろう。

計画含みの概念は、多くの点で、単に事実的な概念を模倣するであろう。これが、本書のこれまでの主な要点であった。規範的思考の説明は、適切な規範的思考の内部にあるすべての事柄を、すなわち何が何を含意するのかとか、概念的に首尾一貫した可能性は何かとかといったことをきちんと理解しているならば、内的に適切(internally adequate)であると言ってよいだろう。ロナルド・ドゥウォーキンは、表出主義的な説明が内的に適切であるならば、それはわれわれがまだ知らないことを教えることができるのだろうかと問うた。表出主義的説明は、ムーア、ロス、ユーイングのような「道徳的実在論者」がこれまで否定してきたようなことを、どうやってわれわれに教えることができるのだろうか。もし内的に適切な説明が正しいのであれば、道徳的実在論者の間違いは「外的」なものでしかなく、道徳に関する純粋に外的な主張は無意味なものになりうると彼は論ずる。第一に私の説明は、道徳的実在論者が説明されないナマの事実と見做す道徳的思考の内的特徴を説明する、と私はまず答える。第二に、少なくとも一つの外的な誤りは理解可能である。その誤りとは、〈表出主義的説明は、たとえ内的に適切であっても、われわれが規範的主張をしているときに主張していることの一部をまったく省いてしまう〉と考えることである。この主張はドゥウォーキンも私も否定しているが、これは存在的主張であり、それゆえに理解可能である。そして、他の非自然主義者も、彼らがそれを理解すればすぐにこの主張を為すであろう。

本書では、意味についての主張が意味を持つことを前提としているが、「意味」の意味については何の立場も取っていない。例えば、意味の概念は規範的概念であって、意味については「端から端まで規範」であると考えるロバート・ブランダムが正しいかもしれないということを、本書の立場は許容しうる。

IV. Knowing What to Do

10. Explaining with Plans

将軍が成功したのは洞察力のおかげだというように、出来事を規範的な言葉で説明することはよくある。洞察力という概念は規範的であり、私の仮説によれば、規範的であるということは計画含みであることに存する。しかし、もし規範的概念が因果的説明に関わるのだとしたら、それは記述的で自然主義的なものなのではないだろうか。いかにしてそうした説明は計画含みでありうるのだろうか。

超決定状態という概念装置は、このような因果的説明が、計画含みでありかつ理解可能である理由を説明する。また、ある意味では、自然的事実だけが起こったことを因果的に説明できる理由も説明できる。われわれ自身、ある出来事を完全に自然主義的に説明する方法がないかもしれないが、それでも計画に基づいた説明を受け入れることができ、その説明が実際に真実でありうる。しかし、すべてを正しく決定した思考計画者は、その出来事を純粋に自然主義的に説明し、自分の関連する計画とは異なる説明をするだろう。これは説明のレベルの問題ではない。というのは、すべてを正しく決定した超決定的思考計画者は、木と一緒に森も見て、真の因果的説明が得られるすべてのレベルで純粋に自然主義的な説明をするかもしれないからである。しかしなお、何が起こったのか、なぜ起こったのかという彼女の説明は、彼女の計画とは異なるものになるであろう。

私がすべての性質は「自然的」であると主張するとき、私はこの言葉を、ムーアに最も近い意味で使っている。私の主張は、幽霊、悪魔、波動などの自然界以外の認識の可能性を排除するものではない。このようなものは、私たちが知る限り存在しないが、存在しないということは、本書で私が語っていることとは別の話である。もし存在したとしても、それらは因果律の一部であり、私の主張に反論するものではない。明確に引くべき区別は、概念の種類についてであって、性質の種類についてではない。計画含みの用語も自然的な用語も、それが示す(signify)性質は大まかには自然的である。だが概念のなかには計画性含みなものもあり、計画含みの概念は純粋に自然主義的ではない。

11. Knowing What to Do

計画含みの知識というものは存在するのだろうか。いかに生きるべきか知っているとか、ある種の人生を生きることの内在的価値を知っているとかと、理解可能な仕方で言えるのだろうか。完全な答えを出すには「知る」とはどういう意味かを説明する必要があるが、知識の概念は哲学的に捉えどころがないことは周知の通りである。大雑把に言えば、知識とは信頼できる信念であり、信頼できる方法で形成された信念ということになる。ある人を知っていると見做すことは、その人が抱く種類の状態に頼ることにすることにほかならない。知識の概念に関するこのような説明が、平凡な事実に基づいた信念に対して機能するのであれば、計画に基づいた信念に対しても機能するはずである。つまり、計画に基づいた知識の主張を理解可能なものとして認めることになる。このような知識の概念は、それ自体が計画含みである。例えば、あなたが功績に本質的な価値があるかどうかを知っているとして、私があなたを信用した場合、私自身が功績に本質的価値があるかどうかについて分からない場合には、功績に関するあなたの計画を真似しようと考える。

12. Ideal Response Concepts

規範的概念を表出主義的に扱うことに代わる最も妥当な方法は、ファース、ブラント、マイケル・スミスの精神に基づく「理想的反応(ideal response)」分析である。こうした分析によれば、人が何を為すべきかとは、意思決定にとって理想的な心的状態で何をするかということにほかならない(あるバリエーションでは、理想的な状態とは、関係するすべてのことを完全かつ鮮明に認識している状態である)。記述的な理想的反応の定義は、この図式を「理想的」という言葉の自然主義的な定義で埋めるものである。しかし、このような定義は、ムーアのような反論を受ける可能性がある。というのも、どのような心的状態であれば本当に為すべきことをすることができるのかについては、人々のあいだで意見が分かれる可能性があるからである。彼らの論争は、単に概念的な間違いから来るものではない。むしろ、意思決定のための理想的な心的状態という概念自体が規範的であるように思われる。つまり、理想的な心的状態とは、信頼すべき心的状態にほかならない、と言えよう。ある心的状態を計画のための理想的なものと見做すことは、その心的状態で行なわれた計画を信頼することを計画することにほかならない。「理想」という言葉をこのように読むと、結局のところ、理想的な反応の定義は計画含みのものとなる。

13. Deep Vindication and Practical Confidence

本書では、計画がもつ実在論的特徴が、科学や平凡な事実に対する普通の信念といかに類似しているかを強調してきたが、ここではこの二種類の探求がどのように対照的であるかを取り上げる。例えば、私たちの視覚能力を例に挙げてみよう。ダーウィンは、これらの能力の正当性の主張をしている。彼は、これらの能力が問題を正しく解決するために進化する理由を説明しているのである。このような正当性の主張は、感覚的な知覚から独立したアルキメデス的な立場から進められるという意味ではなく、感覚的な知覚からその正当性の証明までの円が自明ではないという意味で、深いものである。それは単に、「これは手であり、見よ、視覚はそれを手として提示する」という形ではない。私は、価値を見分ける能力、最終的に何を計画すべきかを知る能力の、そのような深い、内面的な正当性の主張についての見通しを吟味したが、そのような正当性の証明を実現するもっともらしい方法は見つからなかった。したがってある意味では、周囲の状況を知ることはあっても、最終的に何を目指すべきかを知るということはない。その代わりにわれわれは、慎重な実践的自信、つまり、人生の価値を見出す能力に対するある種の用心深い信仰をもたねばらなないのである。

14. Impasse and Dissent

徹底的に話し合えば合意が得られるという論理的な保証はない。それぞれが完全に首尾一貫した思考と計画を持っていたとしても、会話の行き詰まりが生じるかもしれない。このような首尾一貫した根本的な行き詰まりがどのような形をとるのか、まず二つの純粋な形から検討してみる。両者がそれぞれ理想的な判断条件にあると考えているにもかかわらず、もっともらしいと思う感覚、つまり基本的な精神構造が異なるために判断が異なる場合、袋小路は合法的(constitutional)なものとなる。両者が基本的な精神構造を共有しているが、判断のための理想的な条件についての見解が異なり、それぞれが自分の光では理想的な条件にいるが、相手の光では理想的な条件にいない場合は、多平衡的(multi-equilibrium)な行き詰まりとなる。整合的な超決定的思考計画者も、この二つの純粋な形態を組み合わせた形で違いがあるかもしれない。首尾一貫しているとはいえ、超決定的ではない当事者については、彼らの見解を鋭くする別の方法があるだろうし、異なる鋭さは異なる合意の形態を例示するかもしれない。その場合、何をもって意見の相違とするかについては、明確な答えはないだろう。

しかし、二人の人間が、同じような事態を想定して計画を立てても、その違いを真の意味での意見の相違と見做すことはできない。二人の意見が一致することがないのであれば、それは紛争を幻想的なものにしてしまうのではないか。この問いは、この本の企画の中心となっている。同じような疑問は、個人でも時間が経てば、気分や熱意で計画から計画へと振り回されることになる。しかし、個人の場合、われわれは明らかに、心変わりを以前の自分に反対するようになったと見做す。なぜなら、一つには、時間をかけて計画を立てるには、このような姿勢が必要だからである。対人関係においては、計画の違いを単なる違いと見做し、意見の相違とは見做さないという選択肢もあるだろう。対人関係の場合は、計画の違いを単なる違いとして捉え、意見の相違ではないと考えることもできるだろうし、また、生き方を考えるために「頭を合わせる」こともできるだろう。つまり、それぞれが相手の声を自分の最近の考えと同じように、受け入れるべき考え、拒否すべき考えとして扱うのである。しかし、あなたは、私の考えがこのような形で聞くに値しないと思うかもしれない。その場合、われわれがお互いに賛成したり反対したりしていると見做すことは、まだ首尾一貫しているが、われわれの共同思考の実践は、あなたの目には意味がないと映るかもしれない。

私自身は、何をすべきか、何のためにすべきかを頭を使って考え、互いの判断を暫定的に信頼しながら、どのように生きるべきかを共同で考えていきたいと考えている。そのために、私は共同で検討するための計画的判断を提案する。われわれの規範的言語は、このような事業に対する暫定的な信頼を体現するものであると私は提案する。

文献

2021年4月15日
2021年12月5日
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