哲学覚書

Haslanger (2011) の覚書

Abstract

腰パンはかっこいいだろうか。牛は食べ物か。女性は男性よりも従順か。黒人は白人よりも多くの犯罪を犯しているか。社会的世界を額面通りに受け取るとき、多くの人はこれらの問いに肯定的に答えたくなるだろう。そしてもし[その答えに対して]異議が申し立てられたならば、人々はその答えを支持する事実を指摘することができる。しかし、そうした肯定的な答えには何か悪いところがある。本章で私は、当該の総称的主張(generic claim)は通常〈当該の事実はそのように記述される対象――女性や黒人、腰パンなど――についての特別な何かに基づいて得られるものだ〉と人が推論するのを許すことを、言語哲学や形而上学における最近の考え方を用いて示す。しかし、私が与えた例においては、この含意推論(implication inference)は正当な根拠がない。当該事実は、対象が位置づけられている社会関係の広範なシステムに基づいて得られるのであり、対象それ自体の内在的・傾向的な特徴に基づいてはいない。しかし、背景的関係は不透明なものであり、結果として、そうした主張は少なくとも体系的に誤解を招くものとなる。[その主張の]否定は、問題含みの含意を阻害する機能を果たす。そうした含意あるいは前提(presupposition)を明るみに出し、それらを阻害することが、イデオロギー批判のきわめて重要な部分となる。

Introduction

179a

腰パンはかっこいいだろうか。牛は食べ物か。女性は男性よりも従順か。黒人は白人よりも多くの犯罪を犯しているか。多くの人はこれらの問いに肯定的に答えたくなるだろう。しかし、そうした肯定的な答えには何か悪いところがある。

私は、「腰パンはかっこいい」とか「牛は食べ物だ」とか「女性は男性よりも従順だ」という主張を否定する。しかも、これら主張を否定することには客観的な基礎があると断言する。

しかし、どうすればそんなことができるのか。実際に、牛はアメリカ人の食料であるし、女性は仕事や家庭において男に従っているではないか。どうすれば、こうした主張を正当に否定できるのか。

180a

以下、概要とほぼ同じなので省略。

Ideology

180b

イデオロギーとは何か。そして、それはいかにして哲学的問題を引き起こすのか。最も基本的な意味では、イデオロギーとは、何らかの仕方で社会実践を補強するのに役立つような、社会生活の表象である。[*イデオロギーは社会生活の表象なのか、それともその表象を記述する枠組みのことなのか。言説とイデオロギーは似たようなものとも言われている。]

ある重要な意味では、社会構造はわれわれに課せられたものではない。というのもそれは、われわれの日常的な選択と行動によって構成されたものだからだ。われわれは単に社会構造の歯車の一部なのではなく、社会構造を成立させている。

そして、われわれが世界を表象する仕方についての何か[=イデオロギー]は、社会構造の成立の構成的な部分であり、かつ社会構造を持続させるものなのである。

181a

広い意味では、イデオロギーは、蔓延しておりかつ不可避なものである。私が使う意味でのイデオロギーとは、社会的システムのなかで行為や反応に意味をもたせ、また社会的システムを存続させるのに寄与するような、〈背景的な、認知・感情の枠組み〉なのである。[*ここではイデオロギーは枠組みとされている。ハスランガーはこっちの意味でイデオロギーという語を使っていく。]

181b

イデオロギーを信念の集合と見做すのは有用でない。信念は、離散的で明確な命題的態度として理解されるが、そのような態度の集合としてイデオロギーを理解すべきではない。

社会実践を補強するイデオロギーは、より原始的な傾向性や習慣などの、単なる信念より広い範囲の態度を含まなければならない。より信念的でない形態のイデオロギーは、「ヘゲモニー」と呼ばれることがある。[*覇権的。cf. アントニオ・グラムシ(マルクス主義)]

181c

ヘゲモニックであればあるほど、イデオロギーはより非自覚的で不明瞭なものとなる。

181d

イデオロギー現象によって引き起こされる哲学的な問題が、少なくとも二つある。

第一の問題。通常われわれが意識することのないイデオロギーなるものが、一体いかにしてわれわれの行為の社会的背景を構成するのだろうか。これは部分的には社会学・心理学上の経験的問題だが、哲学者が取り組める部分もある。

第二の問題。イデオロギーをいかに評価すべきか(よいイデオロギー、悪いイデオロギーをどう判別すればよいか)。

182a

本章では、第一の問題に取り組む。つまり、イデオロギーと社会構造とのあいだにはどんな関係があるのか、そしてイデオロギーはいかにしてヘゲモニックになりそのイデオロギーを使用する人々が集合的に社会的環境を構成する際に見えなくなるのか、を考える。

イデオロギー批判はいかにして可能なのかを問うことについては深刻な認識論的問題が存在する。というのも、一旦われわれが自身の社会的世界を構成したならば、社会的世界の記述は真に見えるだけでなく、実際に真だからである。

[女性が男性に従順だというのは真であるが、単にいまたまたま従順なだけだというのではなく、あたかも〈女性の内在的性質により女性は従順でしかありえない〉かのように思われてしまう(ヘテロノーマティブなイデオロギーがヘゲモニックであるとき)。想像の可能性が閉ざされる(そうでない可能性は意識にのぼることすらない)。こうした不適切な枠組みは、批判の対象となりうる。]

182c

イデオロギーがヘゲモニックになるとき、イデオロギーの効果は自然的世界に溶け込み、かつある重要な意味において自然的世界の一部になる。ヘゲモニックなイデオロギーとそれを構成する構造は、変えるのが著しく困難だ。ヘゲモニーの働きを明らかにする重要な資源を社会科学者や心理学者は提供する。しかし哲学者・言語学者の仕事もまた必要である。というのも社会的生活の主要な媒体は言語だからである(言語は、意図的行為、共有された意味、集合組織の基礎を形成している)。

Generics, Semantics and Pragmatics

182c

「女性は男性よりも従順だ(women are more submissive than men)」と人が言うとき、何が主張されているのか。この文のように、all、some、manyなどの量化子なしで一般的表現をする文を、総称文(generics)と呼ぶ。

総称文は他の量化表現と違い、カテゴリー内の個々の例について述べる表現ではなく、むしろカテゴリーについて一般的に述べる表現である。

183a

二つの問いがありうる。総称文の意味は何か(意味論的な問い)。総称文は典型的には何を言うのに用いられるのか(語用論的な問い)。

本章のこの箇所における私の目標は、総称文の一つの可能な説明の要素を提示し、それにより小さな範囲のケースにおいていかに総称文が誤解を招くのかを見ることだ。次の箇所では、それがもちうる社会的帰結は何かを考察することになる。

われわれが最初に必要とする道具立ては、総称文(generic)、総称的本質化(generic essence)、そして共通基盤(common ground)である。

Generics

183b

最初に考えたい仮説:「Ks are F(e.g., tigers have stripes)」の形の総称文は、通常、Ksそれ自体についての何か重要な事実に主に基づく、KsとFとのあいだのつながりを含意する。

183c

上でも述べたが、「Ks are F」の形の総称文は省略的な量化表現である、と理解することはできない。量化表現と比べて、総称文の真理条件は非常に複雑であるように思われるからだ。

184a

総称文の最良の説明についてコンセンサスはない。

サラ゠ジェーン・レスリーの理論:総称文は、きわめて原始的な「一般化のデフォルトの様式」である。われわれは、同じように振る舞うように見える様々な種類の事物へと世界を分類するきわめて基本的な能力をもっており、総称文は、これらの種が典型的に示す印象的な・重要な特徴を強調するものである。

184b

このアイディアを探求するうえで、異なる種類の一般化に敏感でなければならない。

プラサダとディリングハムの指摘。

  • 原理に基づく関係性(principled connection)は、何かの種類によって決定されるような性質と関係している(例:犬にとっての、四本足であること)。
  • 統計的な関係性(statistical connection)は、何かの種類を決定しないが、その種に広く普及している性質と関係している(例:小屋にとっての、赤いこと)。

原理に基づく関係は、形式的説明や規範的期待、その性質が一般に広く普及しているだろうという予測を支持する。

184c

この二つの区別は、重要ではあるものの、様々な総称文の範囲に必要なものを提供するのには十分でないと、レスリーは注意する。

184d

レスリーの見方では、三つのケースがある。

  • 特徴づけ総称文(characteristic generics)。例:「虎は縞模様だ」「鳥は卵を産む」「蜂は卵を産む」。「鳥は卵を産む」は、実際に卵を産む個体は鳥全体の半数以下だったとしても、真たりうる。動物種を特徴づけるものの一つが生殖方法だからだ。特徴的側面(characteristic dimension)は、人工物種の場合はその目的、社会種の場合はその役割であると考えられる。ある種についての特徴づけ総称文は、その種について何が特徴的かを、つまりその種のよい例は何を示すはずかを伝えるということが意図されている。[*「よい例」という概念はレスリー論文には出てこないが、ハスランガーはレスリーとの会話を通じ、「よい例」という概念を入れて解釈したほうがよさそうという結論に至った様子。しかしやや奇妙な解釈ではある。というのも、卵を産む鳥が鳥のよい例だとは思えないから。もし卵を産む鳥が鳥のよい例なのだとすると、メスである鳥が鳥のよい例であり、「鳥はメスだ」も真であることになってしまうのでは。ハスランガーは、アッシャーの総称文理解に逆戻りしてしまってはいないか。]
  • 特筆的総称文(striking property generics)。例:「蚊はウエストナイルウイルスを媒介する」。蚊全体のごく一部だけが実際にウイルスを運ぶし、ウイルスを運ぶことは蚊という種を特徴づける性質ではない。しかし、ウイルスを媒介するという性質は人間にとって危険であり、特筆すべき性質である。このような場合には、「蚊はウエストナイルウイルスを媒介する」のような総称文は真となる。[*実際にウイルスを保有する蚊というのは蚊全体の1%くらいしかいないらしい。]
  • 多数派総称文(majority generics)。単に、統計的に数が多い場合にも、総称文が使われる。例:「車はラジオを搭載している」「小屋は赤い」。しかしこうした総称文は、特徴づけ総称文に比べると不自然に聞こえる。

185a

レスリーの理論は議論の余地があるが、ここでの目的にとっては、レスリーの理論を詳細に受け入れる必要はない。私が強調したいのは意味論ではなく、語用論だからだ。

レスリーから受け取るべき要点は、次のことだ。総称文は、普通の量化言明として扱われるべきでないような独特な種類の言明であり、種に関する重要な性質を強調するために背景的知識や推論パターンを激しく利用するような表現[*背景的知識や推論パターンを激しく利用して種に関する重要な性質を強調するような表現?]である。

Essences, Natures, and Coincidences

186a

アリストテレス的伝統では、真正の種に属する各々のメンバーは、その種のものの特徴的な振る舞いを説明してくれるような内在的な性質の集合から成る本質ないし本性をもつ。

186b

本質を「もつ」仕方は二通りある。人間であるとはどういうことか、と尋ねるとき、われわれは人間という種がもつ本質を探している。これは総称的本質(generic essence)と呼ばれ、対象的本質(objectual essence)とは区別される。前者は種がもつ性質、後者は種に属する個々の例がもつ性質。

種は、その種が何であるかを構成する本質を「もつg」。個物は、この種本質(kind-essence)の例であり、その個物は、個物の本質として種本質を「もつo」。

186c

総称的本質という概念は、真正な種を越えてより一般的な存在の仕方に拡張することができる。つまりわれわれは「人間であるとはどういうことか」だけでなく、「母親であるとはどういうことか」「アメリカ市民であるとはどういうことか」「正しいとはどういうことか」などを問うことができる。

例:プラトン『国家』。たとえ(対象的に)本質的に正しいものが存在しなかったとしても、正義は(総称的)本質をもつ。

187a

ファインとコレイアによれば、本質主義的言明は、本性に関するある事実の基礎についての主張と見做すのがよいとする。このアプローチでは、GがFの総称的本質の一部であるのは次が成り立つちょうどその場合である。

  • FsがGであるのはFであることの本性のおかげだ。
  • GすることはFsのする何かであるのは、あるFであるとはどういうことかのおかげだ。
  • FするとはどういうことかのおかげでFsはGである、ということが真である。

187b

次のことに注意。

  • GがFの本質であるとは、FがGを論理的に含意するということではない。というのも、本質は、ある性質が(形而上学的・認識論的に)他の性質に優先するということを想定するような説明プロジェクトの一部として用いられるからだ。
  • GがFの本質であるからといって、Fであるものが必ずGだというわけではない。[*例:「カラスは黒い」は真だが、白いカラスも存在する。][*対象的本質のほうだと、その種をもっていないともはや同一の存在者ではなくなる。例:人間でないような夏目漱石は存在しえない。]

187c

「本質」などという言葉は日常ではあまり使わないが、本質について語る別の仕方があることをわれわれは見出すようだ。「魚は泳ぐ」のような総称文は、総称的本質についての主張であるように思われる。[*属性文「子供はよく笑う」。cf. 飯田『日本語と論理』。属性文が本質を語る形式であるということ自体はそれほど疑問視されていない(らしい)。]

Common Ground

187d

コミュニケーションを取るために、われわれはある事柄を会話の背景として当たり前のものとして見做す必要がある。つまりわれわれは、ある事柄を共通基盤として前提する必要がある。

188a

会話の共通基盤は絶えず変化している。例:「息子を保育所に迎えに行かなきゃいけないから5時の会議に間に合わない」と言うとき、共通基盤に「未就学の息子がいる」が加わる。会話は、明示的に述べられるもの以外のものによっても情報を伝達するのである。

188b

暗黙的なコミュニケーションは、含意(implicature)および前提調整(presupposition accommodation)によって行なわれる。[*ここで含意とは、いわゆる会話の含意のこと。][*おそらく、含意は非明示的なもの、前提調整は明示的なもの。]

例えば、私の発言から何かを前提としていることが明らかであれば、あなたが私の誠実さや信頼性を疑う理由がない限り、あなたは私が前提としている命題を正当に推論することができるし、私は、あなたが別段の示唆をしない限り、共通基盤が私の前提を含むように調整されていると考えることができる。

例:「息子を保育所に迎えに行かなきゃいけないから5時の会議に間に合わない」と私が言うと、あなたは「未就学の息子がいる」と正当に推論することができる。あるいは私は、あなたが「息子さんは十代だと思ってた」などと言わない限りは、共通基盤に「未就学の息子がいる」が加わったと考えてよい。あなたが「息子さんは十代だと思ってた」と言い、私が「息子は確かに十代だが、ボランティアで保育所に行っているのだ」と言えば、共通基盤がさらに更新・修正される。

共通基盤は含意を通じて、暗黙的に更新・修正されることもある。

188c

会話のなかで言われたことによって新たな要素が共通基盤に導入されるときはいつでも、会話者はその動きを阻害する選択肢をもっている。否定は阻害の一つの手段だ。

文字通りには真であることを否定することもできる。いわゆるメタ言語的否定だ。例:「彼は女と会っているわけじゃない。彼は奥さんと会っているのだ」。[*共通基盤を操作する目的で、意味論的には矛盾した言い回しを使っている。]

189a

共通基盤の更新は、意味論的なものではない。むしろ共通基盤は、話者によって前提されることや、会話の格率に従って話者の発話によって含意されることに関係する、語用論的な概念である。

共通基盤の更新は、個別の会話に依存するような動的過程である。しかし、他者と滑らかにコミュニケーションを取りたいと思う人に対して、彼らの周りにある他者の共通基盤に従うべしという重要な社会的圧力が存在する。

Generics and Implication

189b

部品を組み立てるときが来た。

一般化を表現するとき、人は量化文を用いることができる。

  • All [most/some] Fs are G.

総称文を用いることもできる。

  • Fs are G.

189c

量化文でなく総称文を用いる場合、〈GであることはFであるとはどういうことかに、ともかくも基づく〉とか〈GすることはFたちがFであることに基づいてするようなことだ〉ということを話者は伝えることになる。

189c

総称文の意味論は、Fsとbeing Gとのあいだに非偶然的なつながりが存在することを求める(特徴づけ総称文や特筆的総称文の真理条件を思い出そう)。

レスリーが述べている一般化のデフォルトモードの有用性と普遍性を考えると、もしFはGだと主張するならば、「普通」の状況では、FをGにするのはFであることについての何かであり、Fはそれ自体でGである傾向をもつ、ということが含意される。これは語用論的な含意であり、通常、撤回されうる。

しかし撤回されなければ、その語用論的含意は、総称文「Fs are G」から〈Fsは、FであるとはどういうことかのおかげでGである〉という総称的本質の主張を導く推論を許す。例:「虎は縞模様だ」という発話は、「虎は、虎であるとはどういうことか[=虎の本質]のおかげで縞模様だ」というさらなる主張を共通基盤に導入する。[*同じことが「蚊はウエストナイルウイルスを媒介する」や「アヒルは卵を産む」の場合でも言えるのか、疑問。]

[*意味論と語用論をつなぐ議論が雑な気がする。量化文だと語用論的に本質化が含意されないのに、総称文だと含意される、というのであれば、その仕組みを明示する必要があるのではないか。]

190a

混乱を避けるためいくつか例を見ていく。

  • (a) 女性には鼻がある(Women have noses)。

これは真であると思われる。しかし、奇妙な主張ではある。誰かが(a)を主張したとき、「ええ、まあ、人間には鼻がありますからね」と応答したくなる。

(a)は、女性それ自体についての特別な何かが鼻をもつことを説明する、ということを[語用論的に]含意する。しかしこの前提は偽である。

[*語用論的含意が撤回される例。]

[*しかし、「ほとんどの女性には鼻がある」でも、同様の語用論的含意がありそうな気はする。本質に関する語用論的含意が出てくるというのが、総称文特有の現象なのかやや疑問。]

[*「人間には鼻がある」「ええ、まあ、哺乳類には鼻がありますからね」とはならない。なぜ? そもそも「女性/人間/哺乳類の本質」とは?]

190b

  • (b) ドーベルマンの耳は尖っている(ドーベルマンは先の尖った耳をもつ。Dobermans have pointy ears)。

これを肯定すべきか否定すべきかは文脈による。一方では、「いや、本当はドーベルマンは尖った耳をもっているわけじゃない。ドーベルマンは子犬のころ耳を切られるのだ」と言うのが適切な場合がある。他方では、成犬のドーベルマンが典型的にどんな見た目をしているかという話の文脈では、(b)を肯定するのは適切となる(ドーベルマンを育てるとき耳を切るというのが標準の育て方なので)。

しかし、(b)は少なくとも、紛らわしいので意味を明確にしたほうがよいように思われる。というのも、(b)は、ドーベルマンがその本性からして尖った耳をもつというデフォルトの含意をもつ[*本当?検証手段は?]からだ。

191a

  • (c) 独身者は未婚である。

この主張は真である。ただしここから対象的本質についての前提は含意されない(ジョンが独身者だからといって、ジョンそれ自体の性質によりジョンは未婚だ、ということは出てこない)。あくまで総称的本質についての前提が含意されるだけだ。

191b

  • (1) 腰パンはかっこいい。
  • (2) 牛は食べ物だ。
  • (3) 女性は従順だ。
  • (4) 黒人は暴力的だ。

191c

(1)について。

腰パンは、仲間内からそのように見られている限りにおいてかっこいいにすぎないということは、誰もが知っている。

ファッションの例が有用なのは、少しでも洗練された人にとっては、ファッションのかっこよさが物に由来すると考える誘惑が不安定だからである。その考えに引き込まれることはあっても、かっこよさが社会的な文脈に由来する関係的な事実であることを認識することで、簡単にそれに抵抗することができる。[*「抵抗」とは?]

ファッションの本質化を見抜いたとき、われわれは「腰パンはかっこいい」という主張を否定する必要はない。というのも、実際に信じたり、相手が信じていると信じたりすることなく、暗黙の了解が共通基盤に入ることを許容することができるからだ。[*ある主張を共通基盤に入れることと、自分がその主張にコミットすることとは区別できる。]

191d

重要な仕方で類似した例として次がある。

  • (1b) 女性は口紅をする。

(1b)が、「よい女性、本当の女性、普通の女性は口紅をする」ということを含意するよう用いられることは、想像に難くない。

[*ordinaryとnormal。後者のみ規範的(?)。日本語だと、「普通の」はどちらも意味する。結局どちらも規範的かも。ordinary → order。]

192a

(2)について。

食べ物は、文化的・規範的カテゴリーである。栄養価があり食べられるものすべてが食べ物だということにはならない(実際、ペットや子供は食べられるが食べ物ではない)。

しかし、「牛肉は食べ物だ」と主張されると、牛肉(あるいは牛)の本性についての何かがそれを食べ物にするという含意を受け入れたくなる。

192b

この含意を受け入れることは、道徳的次元を除けば、ファッションについてと同様の過ちである。

食べ物かどうかの基準は文化に依存する。しかし「牛は食べ物だ」「牛肉は食べ物だ」と言うと、そのことが覆い隠される。牛は食べるためのものであり、牛肉は単なる食べ物だ、ということが共通基盤に導入されてしまう。[*元々導入されてるのでは? それともこういう総称文によって導入されてきた歴史があるということ?][*共通基盤は特定の会話において形成されるもの。]

これが有害な前提である場合、牛は食べ物ではないと言ってその含意を阻害することは理に適っている。

193a

(3)と(4)についても同様の議論が成り立つことは想像に難くない。

しかしこれまでに見てきたように、人間の規約が物の自然的性質を拾い上げ、自然的なものと社会的なものとの境界が曖昧になることがある。そのため、食べ物、ジェンダー、人種などの社会種を構成する自然的なものと社会的なものとの相互作用をより詳しく見ていくことが役に立つだろう。

Structures, Schemas, and Resources

193b

社会構造とは何か。ここでは次の意味で用いる。

「社会構造」とは、社会現象の一般的カテゴリーである。社会制度、社会実践や社会的規約、社会的役割、社会階層、社会的位置・地形[*社会的位置・地形とは、住んでいる「地域」ということか]などが含まれる。

193c

シーウェル、ギデンズ:社会構造は、社会システムを構成する実践の媒体であり結果でもある。構造が人々の実践を形成するが、逆に人々の実践が構造を構成・再生産しもする。このように考えると、人間の主体性と構造は対立するものではなく、むしろ互いを前提としていることになる。

シーウェルは、構造とは「スキーマ(schemas)と資源(resources)」であるとする。

スキーマには、ある社会の基本的な思考手段を構成する二項対立の配列だけでなく、これらの基本的な手段を用いて構築された様々な慣習、レシピ、シナリオ、行為原理、言動の習慣、ジェスチャーなどを含む文化的スキーマが含まれる、とシーウェルは見做す。[*イデオロギーと何が違う?→スキーマは、イデオロギーの一形態とのこと。]

193d, 194a

シーウェルにとって、スキーマは個人的なものではなく、間主観的で新しい状況に対して変形可能なものである。他方、社会心理学でいうスキーマ1は、個人的なものである。

ハワードは、心理的(個人的)でもあり社会的でもあるような概念としてスキーマを捉えたほうが有用だと考える。

194b

これをどう理解すればよいか。スキーマとは、知覚・思考・行動の間主観的なパターンであると考えよう。[*スキーマは、この状況ではこう行動すべし、という形式の知識の集合と考えてよいか? でも傾向性って言ってるしな……。]

このように理解すると、スキーマは共通基盤の一部であると考えるのがもっともらしい。[*共通基盤をそんなに曖昧なものとして捉えていいの? 共通基盤って命題の集合みたいなものだと思ってた。][*後のほうの記述を見ると、スキーマは知覚・反応の傾向性と捉えられている(楽譜を見てピアノの鍵盤を叩く傾向性など)ので、どう考えても共通基盤の一部などではないような気がするのだが。][*スキーマも共通基盤も、われわれの思考・会話を規定する何らかの概念枠組みみたいなものとして捉えているのかもしれない。共通基盤の理解としてはかなり不自然ではあるが。]

194c

スキーマは社会構造の要素の一つであり、もう一つの要素は、資源である。

資源は、社会構造の物質性を提供する。ギデンズ/シーウェルの説明では、資源とは「権力を強化したり維持したりするために使用できるもの」を指す。これには、通常の意味での生物や非生物の物質に加えて、「体力、器用さ、知識」などの人的資源が含まれる。

例:二つの性のカテゴリーというスキーマは、トイレのデザインやラベルに現れている。

194d

スキーマと資源はいかにして社会構造を構成するのだろうか。シーウェルは次のように言う。

資源がスキーマの実体化(instantiation)あるいは具体化(embodiment)であるならば、その資源はそれゆえに、スキーマを植え付け正当化しもする。例:工場の門、the punching-in station[出勤記録する場所?]、組み立てラインのデザインなどは、資本主義的労働契約の規則を教え、かつ正当化する。

194e

社会構造は、共有された(集合的な)スキーマと資源の組織化とのあいだの、因果的で相互に支え合う依存性が存在するときに、存在する。例:タイムレコーダーは、「雇用主は従業員に出勤時間に応じて給料を払うべし」というスキーマがなければタイムレコーダーとして存在できない[スキーマがなければタイムレコーダーはただの妙な機械]。他方、タイムレコーダーの存在によってこのスキーマは維持される。

ここには因果関係が存在するが、単に因果関係だけが存在するのではない。では他に何が存在するのか。

195a

例:ジャンヌ・ダルクの銅像。銅像の材質や形は資源。銅像のもつ歴史・機能・解釈は(おおよそ)スキーマ。

スキーマ/資源の区別は、質料/形相の区別と類比的な仕方で適用されうる。

[*言いたいことはなんとなく分かるが、スキーマという概念が曖昧すぎやしないか?]

195b

社会的出来事の例のほうが、社会的事物の例よりももっと役立つかもしれない。例:バッハのメヌエットをピアノで演奏する。演奏という出来事は、ピアノ・楽譜・指などを(資源として)含む。また、演奏という出来事は、ピアノを弾くことで楽譜に反応する傾向性の集合や、様々な儀式的仕草(演奏をリハーサルでなく本番にするような仕草)を(スキーマとして)含む。

この観点からすると、ほとんどの行為には、単に意図や物理的な動きだけが関わっているのではなく、意図を実現させるような、事物に作用する傾向性が関わっている。

195c

この種の〈社会的世界のスキーマ的具体化〉は、遍在している。

195d

もし実践[←ここはなぜ社会構造じゃないの?]がスキーマ(ある仕方で知覚・反応する傾向性の集合)と資源(道具と物質的財の集合)による構造化された産物であるとすれば、それは決して「主観的」なのではない。社会構造は単にわれわれの頭のなかにあるのではなく、公共的(public)なものである。社会構造は単に物質的な事物ではないが、物質的な事物によって構成される。社会構造は、われわれによって人工物が作られる仕方と同じ日常的な仕方で、われわれによって構成される。このアイディアは、いわゆる「社会構築主義」に賛同することなしに、受け入れることができる。

[*そもそも、社会構造のなかに社会実践も含まれるとか言ってたけど、これがよく分からない。]

196a

以上のように社会構造を大まかに説明することで、社会環境(social milieu)という考え方を明確にすることができる。

上で見たように、社会構造を構成するスキーマとは、社会的に意味のある対象物、行動、出来事に対する反応の基礎を形成するために個人が内面化した、間主観的または文化的なパターン、スクリプトなどのことである。

個人はその文化的背景の支配的なスキーマと複雑な関係をもっている。スキーマに無知であったり、鈍感であったり、スキーマを拒絶したり、自分の目的のためにスキーマを修正したりするかもしれない。

おそらく、スキーマを巡る交渉は、少なくとも部分的には、共通基盤を形成することによって言語的に起こるのだろう。

196b

本章の目的にとっては、個人の(一般的な)社会環境を、問題となる公的なスキーマが内面化されているか否かにかかわらず、その個人が活動する社会構造という観点から定義することが有用である。

196c

要約しよう。

スキーマと資源が実践を構成し、〈相互依存する実践〉のパターンが構造を構成する。スキーマ(傾向性、解釈、経験、信念など)は、われわれがコミュニケーションを取るために必要な共通基盤として重要な役割を果たしているが、同時にイデオロギーの一形態でもあると私は考える。この考え方によれば、イデオロギーは社会構造を正当化するための一連の背景的な信念であるだけではないことになる。スキーマの形をしたイデオロギーは、構造を部分的に構成しているのだ。[*新たに「経験」までスキーマの一部になってるけどいいのか? 解釈図式がスキーマというのは分かるが解釈それ自体がスキーマというのはどういうこと?]

“Looping” and Social Kinds

196d, 197a–c

社会現象の議論において、ハッキングは「ループ」という現象を強調してきた。

「女性難民」のような種(分類)は、相互作用種(interactive kind)と呼ばれる。女性難民は、女性難民と分類されたことによってその振る舞いを変える。相互作用は、典型的には、その分類を取り巻く制度・実践のより大きな母体によって介在される。

「クォーク」のような種(分類)は、無反応種(indifferent kind)と呼ばれる。別にクォークは、クォークと分類されたからといって振る舞いを変えることはない。

197d

ハッキングが特に興味を持っているのは、ある種の対象構築(object construction)、つまり、構築された行為者の自己理解や意図を構成する概念を社会的文脈が提供することで機能する構築である。このようなケースでは、行為者は社会的に利用可能な分類を(多くの場合、意識的に)意図的行為者性と自己意識に組み入れるが、彼らの自己理解が進化するにつれて、それらの分類の意味も進化していく。これにより、分類に関する客観的なスタンスと主観的なスタンスと考えられるもののあいだに「フィードバック・ループ」が形成される。

しかし、社会構造の構築におけるスキーマと資源の関係は、一般にループしていることに注意する必要がある。資源は、傾向性(スキーマ)を引き起こすように形成され、その傾向性は、今度は資源を利用し形成するような仕方で現れる。例:料理。グローバル化が進んでいない世界では、地元の料理を支えるために農作物が栽培され、その農作物を利用して地元の味や料理の技術が進化してきた。より複雑で広範な社会的変化では、消費者の嗜好が発達し、特定の製品が特定の環境で「必需品」となるのを見ることができる。料理のトレンドは生産のトレンドになるが、今度はそれが労働のトレンドに影響を与え、それが階級や味覚のスキーマに影響を与える、といったぐあいだ。

197e

このループ性は、社会構造の社会的次元を不明瞭にする。イデオロギーが紛争中でなくヘゲモニックなものであれば、それ自体の効果に気づくには不十分に意識的である[?]。そのため、ヘゲモニックなスキーマが資源に与える因果関係は、通常は見えない。スキーマの「きっかけ」は世界という外部にあるため、われわれはこれに付き従い、社会構造は必然的で自然な「所与のもの(given)」であるように見えるようになる。

現在進行中のすべての社会組織は、自分たちの世界の構成を巡って争いや闘争を取り入れているが、社会構造のほとんどの側面は当然のことと考えられている。社会的行為者たちは、自分たちの社会的世界のかなりの部分を、必要なものとして、そして多くの場合、それらの世界ですべての機能を果たすためにしなければならないような自然なものとして受け入れている。多くの場合、目に見えず、確実に異議を唱えられていない、これらの当然のこととされている構造は、不利益や不正の原因となることはあっても、正義の主張や批判の対象となることはほとんどない[…]ヘゲモニーは意識を植民地化する[…]。

198a

特定の料理に小麦を使うことは、必然的であり、自然であり、「当たり前」のことのように思えるかもしれない。小麦は入手可能なものであり、小麦は単にわれわれが食べるものである。しかし、小麦が手に入るのは、農法や食品流通などを確立する資源に対するスキーマの影響があるからである。そのような構造が安定しているからこそ、料理の味が従うのである。この文脈では、キヌアや大豆、スペルト小麦は不味く、食感もおかしいので、誰が植えたいと思うだろうか。ヘゲモニーは意識を植民地化するのである。

Critique

Refusing to Accept the Common Ground

198b

もしイデオロギーが社会的世界を部分的に構成しているのだとすれば、イデオロギー的な構造の記述は真であることになり、したがって認識論的に言えば、イデオロギーについて何が間違いであるのかがはっきりしなくなる。[*結局何が間違いなのか下を読んでもよく分からない。→認識論的には何も間違っちゃいないけど倫理的には間違っているのだ、という感じっぽい。]

198c

ヘゲモニーは(それが正義に適ったものであれ不正義なものであれ)、必然的で自然な「所与のもの」に見える。この誤った見かけは、社会構造のループ性により容易に生成される。上で見た(1)–(4)の総称文が問題含みなのはこのことによる。

総称文は、語用論的に、間違った仮定を共通基盤に導入してしまう[*スキーマは共通基盤の一部だとされていたことに注意。つまり総称文の使用はスキーマを悪いものに変えうる]。いったん文化的な共通基盤にそうした間違った仮定が導入されれば、それを除去するのはきわめて困難である。

199a

したがって、イデオロギー批判の第一段階は、こうした総称文の主張を拒否し、スキーマと資源との、そして物質的世界とその解釈との、相互依存性を明らかにすることである。

199b

例を見よう。

  • (4) 黒人は暴力的だ(犯罪者だ、危険だ)。

これは特筆的総称文の例に見える。しかし、この総称文が含意することは、「黒人という種はその本質からして暴力的である傾向をもつ」ということである。したがって(4)は、偽であるか、もしくは偽なる主張を共通基盤に導入してしまうという意味で非常にミスリーディングであるか、のどちらかである。それゆえ人は、(4)の主張に反対する権利がある。

199c

「黒人という種はその本質からして暴力的である傾向をもつ」というのは語用論的含意だから、それを打ち消すことはできる。ではそうすれば、「黒人は暴力的だ」と主張してもよくなるだろうか。ならない。なぜなら、(4)を「すべての/ほとんどの黒人は暴力的だ」の意味で読んだ場合でも、やはり偽だからだ(統計的に、暴力的でない黒人のほうが多いはず)。よって、(4)はメタ言語的否定によって拒否すべきであるだけでなく、普通の否定によって拒否すべきものでもある。

199d

それでも(4)は何らかの真理を捉えていると思われるかもしれない。しかし、特筆的総称文の性質を考えると、これは強いコミットメントとなりうる。総称的本質化を拒否したとしても、(4)を主張することは「ほとんどの黒人は暴力的だ」という誤った主張を共通基盤に導入してしまうことにつながる。よって、やはり(4)の主張に対して会話者は抵抗しなければならない。[*人々は、弱い証拠に基づいて総称文を受け入れがちである一方、総称文から強い結論を導きがちだ、という話。]

200a

  • (3) 女性は従順だ(子育てする、協調的だ)。

この文がレスリーの分類のどれに当てはまるのかはよく分からない。

しかしここでも、よいあるいは普通の女性は従順だという考えがありうる。ここで「普通」とは、「統計的に普通」という意味ではなく、どんな個物がその種のよい例なのかに関係する意味での「普通」である。あるいは、背景的なテンプレートが存在するのかもしれない。[*特徴づけ総称文と捉える、ということか]

あるいは、(3)は単に多数派総称文(majority generics)なのかもしれない。

200b

いずれにせよ、(3)を否定すべき理由がある。(3)は特徴づけ総称文としても多数派総称文としても、偽だからだ。

しかし(3)の真理条件がはっきりしなくとも、その語用論的な効果を考えることはできる。(3)が語用論的に含意することは、「女性はその本質からして従順だ」ということだ。この含意は阻害することが必要だ。

200c

(3)を主張する者が、「ほとんどの女性は従順だ」ということを根拠に言ったのだとしたらどうか(つまり多数派総称文として捉える)。そうだったとしてもやはり(3)の主張にはまずいところがある。(3)は女性の本質についての含意をもたらすからだ。

200d, 201a

では以下の総称文についてはどうなのか。

  • (5) 女性は虐げられている。
  • (6) アメリカの黒人は人種差別に苦しんでいる。

これら総称文をどう扱うべきだろうか。(5)や(6)は、「女性はその本性からして虐げられる」とか「黒人は人種差別に苦しむのが自然だ」ということを含意するのか。そうだとしたら、フェミニストたちが(5)や(6)を主張するのも間違いだということになるのか。

201b

二つ選択肢がある。

一つめ。これら総称文については、発話の文脈が含意を打ち消してくれる。というのもこれらが発話される文脈では、社会実践を批判しているのであり、差別は自然なことだということを正当化しようとしてはいないからだ。よって、(5)や(6)を発話したとしても、特に問題ない。[*何が語用論的に含意されるかについて、ハスランガーは直観に任せすぎな気がする。]

201c

二つめ。「女性であることと、虐げられることとのあいだには非偶然的な関係がある」ということを認めても問題ない。女性は虐げられるのが自然なことだ、と言いたいわけではない。むしろポイントは、女性であることは不正に扱われることのよい指標(good predictor)である(=女性は女性であることのせいで虐げられる)ということだ。これは確かに真なので、この含意を阻害する必要はない。

しかし、この立場では「女性はその本性によって虐げられる」ということになる[*虐げられている女性がいたとしても、それはその人の本性のせいだから仕方ない、ということになる]。これは受け入れがたいのではないか。その通り、受け入れがたい。だがここではスコープの違いに留意すべきだ。

次の文同士を比較せよ。

  • 独身者が結婚していないということは、独身者であるとはどういうことかのおかげで真である。
  • 女性が虐げられているということは、女性であるとはどういうことかのおけげで真である。

202a–b

独身者であることと結婚していないこととのあいだには非偶然的なつながりがある。しかしだからといって、ある独身者に向かって「お前が結婚できていないのは本性からして仕方のない、必然的なことなのだ」と言うのはおかしい。同様に、ある女性に向かって「お前が虐げられているのは必然的だ」と言うのはおかしい。

次の推論を考えよう。

  • (7) 女性は〈非偶然的に、自分の属性のおかげで、本性からして〉虐げられている。
  • (8) サリーは女性だ。
  • (9) それゆえ、サリーは〈非偶然的に、自分の属性のおかげで、本性からして〉虐げられている。

この推論は妥当でない。実際、この推論が妥当であるためには前提に次の強い前提が必要だ。

  • (8*) サリーは〈非偶然的に、自分の属性のおかげで、本性からして〉女性だ。

(8*)は偽なので、(9)のようなおかしな結論を認める必要はない。

[*なんか記法が分かりづらいが、要するに「非偶然的に、自分の属性のおかげで、本性からして」の部分は「女性は虐げられている」の外側からかかっている(言表様相である)ということだと思われる。]

202c

第二の選択肢が受け入れられるものかどうかは、いくつかの考察に依存するだろう。特に、含意の正確な内容をいかに説明するかの詳細にかかっているだろう。

ここでの問題は形而上学的なものだが、それ以上に、心理学的なものでもある。目標は、総称文が発話されるのを聞いたとき人々は何を信じがちなのかを理解することだからだ。

Critique?

202d

目標は、われわれを掌握するヘゲモニーを明示化し、それによってヘゲモニーに異議を唱えることができるようにすることだ。

私の議論により、混乱しており誤ったイデオロギーがいかにしてヘゲモニックになるのかが明らかになってきた。イデオロギーは、コミュニケーションを成功させるための背景として取り込まれるのである。[*より信念的でないイデオロギーをヘゲモニーと呼ぶ、みたいな話をしていなかった? だが総称文によって共通基盤に導入されるものは信念的なのでは。]

203a

では、イデオロギー批判の要点は、ヘゲモニーの内容を明示化し、それによってヘゲモニーを信念のレベルにもってきて評価できるようにすることにあるのだろうか。マッキノンは、イデオロギーの幻想を解き明かすことで、物事がどのようにあるかは、どのようにあるべきかではないことが分かるようになると強調している。

203b

しかし、異なる社会構造の可能性を認識することと、その批判を行うことは別のことだ。社会批判を行うためには、代替手段の発見だけで十分なのだろうか。

203c

単純な仮説では、異なる社会構造の可能性を認識しさえすればよく、さらなる批判は必要ない。自分が住んでいる環境の社会的な仕組みに触れれば、その弱点が見えてくるというものがあるかもしれない。この考え方によれば、必然性の幻想が明らかになることで、現在の(不十分な)環境への投資が破壊され、改善の機会が与えられる。

203d

しかし、このようなことが起こりうるのは事実だが、保証されているわけではないし、そのような引力のすべてが解放に向かっているわけではないという危険性がある。

社会構造が正当なものかどうかを判断するには、さらに道徳的または政治的な批判が必要だ。ヘゲモニーを明示化することは重要なステップだが、それだけでは批判的な側面を捉えるには不十分である。

さらに、先に述べたように、スキーマは凝り固まった気質であり、認知的な関与に応じて変化しないことが多い。また、ヘゲモニーの構成要素は多義的であり、ヘゲモニーの「内容」を明確にすることが可能であると仮定することはできない。[*以下、二つ引用があるが意味が分からず。]

204b

ヘゲモニーと反ヘゲモニーの研究では、多くの人文主義者、法理論者、社会科学者が物語り(narrative)に注目してきた。物語りが重要なのは、異なるコンテクストに転用可能なプロットを持つ社会的スクリプトを定着させる力があるからである。

204c

物語りは、破壊的であろうとなかろうと、われわれが社会生活に持ち込むスキーマの重要な構成要素である。しかし、物語りは唯一の構成要素ではない。例えばフェミニストは、理性と感情、心と身体、自然と文化、男性性と女性性などを対立させる二元的な概念の枠組みが、われわれの思考を誘導し、歪めていることを長いあいだ指摘してきた。また、スキーマには、証拠が乏しい場合に推論を誘導する推論規則が含まれていると考えられている(ウルマン゠マーガリット)。

204d

それゆえ、イデオロギー批判は様々な形で行なうことができるし、またそうすべきだと思われる。[*そうした様々な批判のうちの一つが、誤った前提を共通基盤に導入してしまうような総称文を拒否することである。]

205a

むろん、さらなる目標は、より大きな正義をもたらす社会変革である。これまで述べてきたようなイデオロギー批判は、そのような変革のための概念的な空間を作り出すのに役立つが、思考が行動に取って代わることはない。

所感

  • 「女性は従順だ」とか「女性がいると会議が長引く」みたいなのはあからさまに差別的というか「なんか悪いこと言ってる」感があるからそうした発言を批判するのはいいとして、「女子はこういう系のスイーツ好きだよね」とか「女性向けの何々」みたいな発言はいいのか悪いのか。勝手なイメージだが、フェミニストはこうした「女性らしさ」を女性に押し付けるなと言いそうな気がするので、やはりこれら発言も悪いと言いそうな気がする(そうしたフェミニストがどれくらいいるのか知らないが)。
  • 「女性は従順だ・感情的だ」とか「女性がいると会議が長引く」という発言は偏見を表しており、悪い、というのは確かにその通りだが、その悪さが本当に「共通基盤に本質主義的主張を導入してしまう」点にあるのかどうか。そもそも「女性は女性であることのおかげで従順だ」というのと「普通の・よい・正常な女性は従順だ」というのとは全然違うことのように思えるのだが、ハスランガーのなかではこの二つは同じような内容を述べていることになっているのか。そして個人的には、後者が含意されるのは分かるが前者が含意されるというのはややピンとこない。もっとも「女性は女性であることのおかげで従順な傾向がある」だったらわりと似たような意味になるかも。[*アッシャー的総称文理解が背景にある。]
  • 意味論と語用論をつなぐ議論や、スキーマと共通基盤をつなげる議論がなんか適当すぎる感じがする。もうちょっとなんとかならないのか。そもそもレスリーの意味論の理解や、共通基盤についての理解が怪しいのではないかとも思える。レスリーやスタルネイカーを読んで検討する必要がある。
  • ループ効果は本当に総称文に特有の現象か。別に普通の量化表現でもループ効果は生じる気がするのだが。もしそうだとすると総称文だけを特に批判することは的外れだということになる。これについてはSaulなどを読んで検討する必要がある。
  • フェミニストが「女性は虐げられている」と言うのはOKだと考えるのと同じ理由で、保守的な人は「女性は従順だ」と言うのはOKだと考えるのではなかろうか。結局、必要なのは総称文批判ではなく人々の倫理性の改善なのではないか(保守的な人の考え方は変えなくていいからともかく「女性は従順だ」と言うな、とするのはあまりピンとこない)。

文献

  • Haslanger, Sally (2011). Ideology, Generics, and Common Ground. In Charlotte Witt (ed.), Feminist Metaphysics. Springer Verlag. pp. 179–207.

  1. cf. スキーマ(コトバンク)。 ↩︎

2021年5月27日
2021年8月14日
#philosophy #language #feminism