哲学覚書

前提の覚書

ここでは、話者が言語的情報を、発話行為の主要な命題の一部ではなく、当然のこととして示す現象である、前提(presupposition)について議論する。前提をもつ表現や構文は「前提トリガー(presupposition trigger)」と呼ばれ、定冠詞や叙実的動詞を含む大きなクラスを形成している。この記事では、まずトリガーのサンプルを紹介し、投影や打ち消し可能性などの前提の基本的な特性や、トリガーを特定するための診断テストを紹介する。次に、過去50年間の主な前提のモデルを3つのクラスに分けて紹介する。Frege-Strawsonが提唱した意味論的モデル、Stalnakerが提唱したような語用論的モデル、そして動的モデルである。 最後に、前提理論における現在の主な問題点について述べる。これらの問題には、聞き手の知識状態が話し手の前提に合うように調整されるときに起こる「調節(accommodation)」、前提が間違っている(とわかっている)ときに起こる「前提の失敗」、前提と態度のあいだの相互作用、トリガーとその前提の振る舞いの多様性などがある。

1. Characterizing Presupposition

1.1 Introduction

話者は多くのことを当たり前のものと見做している。つまり、彼らは情報を前提(presuppose)しているのである。われわれがこの文を書いたとき、われわれは読者が英語を理解することを前提した。われわれはまた、(1)で繰り返している最後の文を書いたときには、それを書いたときに時間があったことを前提している。そうでなければ、「この文を書いたとき」という前置きのあるフレーズが時間の間隔を特定できなかっただろうからだ。

  • (1) As we wrote this, we presupposed that readers would understand English.

さらにわれわれは、この文章が共同執筆されたものであることを前提とした。そうでなければ、「われわれ」が指示対象を欠くことになるからだ。そして、読者が「this」の参照先、つまり記事そのものを識別できることを前提とした。そして、読者が少なくとも2人いることを前提とした。そうでなければ、裸複数名詞である 「readers」は不適切だったからだ。こういった具合だ。

これらの前提のなかには、われわれが使った特定の言葉からデフォルトで生じるものもあることに注意されたい。われわれが記事を書いたときの時間が存在することは、「as」の使用に関連する要件だ。これは時間的な前置詞である「as」の意味に組み込まれた要件だ。「as X」というフレーズでは、「X」がある時点で成立していなければならないが、これは時間的な「while」と同様の意味をもつ。「as」は前提のトリガーであると言える。同様に、「this」は指示するのに顕著な何かを必要とする前提トリガーとなり、「bare plural」は複数の個人の存在を必要とする前提トリガーとなり、「would」は顕著な未来や仮定の状況を必要とする前提トリガーとなる。

これに対して、上記の前提のなかには、それらの言葉の意味とはまったく関係のないものもある。例えば、「聞き手が英語を話す」という前提は、「聞き手が話し手(または書き手)の言うことに興味をもっている」という前提と同様に、会話上の前提であり、Stalnaker (1972; 1974)に倣って、話し手の前提または語用論的な前提であると言えるだろう。また、特定のトリガーに関連する前提は、慣習的なものや意味的なものと言われる。意味的前提と語用論的前提の用語上の区別は、理論的に重要である。後述するように、理論家の中には、純粋に慣習的な前提が存在するかどうかは未解決の問題であると考えている者もいる。Karttunen (1973)やSoames (1982)などが提案している中間的な方法は、発話の前提という概念を定義することである。

ここで重要なのは、前提表現を「慣習的」または「意味的」と呼ぶことは、必ずしも、その前提表現が引き起こす前提が文脈に何ら依存しないことを意味するものではないということである。例えば、「this」は慣習的な前提トリガーと見做されるかもしれないが、その解釈は文脈に大きく依存しており、前提は通常、慣習的と見做されるが、通常はまさに発話文脈に対する制約と見做される。

前提は何が特別なのだろうか。つまり、前提がある表現の慣習的な意味の一部に過ぎないとしても、ハンドブックや百科事典に独自の項目を設けたり、他の場所で何百もの記事や本の章を書いたりする価値があるほど、何が前提を十分に際立たせているのであろうか。第一に、前提は遍在している。そして第二に、前提の振る舞いが意味の他の側面と大きく異なる点がいくつかある。

前提の偏在に関しては、少なくとも以下の語彙クラスや構文が前提トリガーとなることが広く認められている。

  • 叙実的動詞
  • 相動詞(aspectual verb)
  • before、after、sinceなどが頭に来る時相節
  • 様態の副詞(manner adverb)
  • 種的に制限された様々なカテゴリーの述語(sortally restricted predicates of various categories)
  • cleft sentences
  • 量化子
  • 確定記述
  • 名前
  • イントネーション

そして、これは前提トリガーとして分類されている単語や構文のごく一部であり、この診断に疑問を感じるケースがあったとしても、前提トリガーが日常言語に溢れていることは疑う余地がない。以下では、前提を通常の含意と区別するための行動について説明し、その行動を説明するために開発された理論をいくつか紹介する。

1.2 Projection

1.3 Cancellability

2. The Frege-Strawson tradition

前提に関する初期の文献は、ほぼ確定記述を中心に展開されている。確定記述は固有の参照先の存在を前提としていると言われている。「フランス国王」のように明確な記述が指示対象を欠く場合、問題が生じる。Russell (1905)は、「フランス国王はハゲている」というような文は確定記述の論理形式が誤った存在主張を含んでいるので偽であると主張した。しかし、Strawson (1950)は、確定記述が指示対象を欠く場合、結果として真理値を欠いた文になることを提案し、Russellの理論に反論した。このように、前提は、表現が意味を持つための必要条件である定義付け条件として理解される。

ストローソンの直観は、フレーゲ(1892年)にまで遡ることができ、次のような定義をもたらす。

Definition 1 (Strawsonian presupposition)
文Aが文Bを前提する ⇔ Aが真または偽であるときにはいつでも、Bは真である。

次の別の定義もよく用いられる。

Definition 2 (Presupposition via negation)
文Aが文Bを前提する ⇔ Aが真であるときにはいつでもBは真であり、Aの否定が真であるときにはいつでもBは真である。

この2つの定義は、もし否定が真から偽に、偽から真に写像し、引数が未定義の場合は未定義であるならば、等価である。しかし、2つ目の定義は、上述の投影の議論との関連で注目すべきものであり、少なくとも1つの演算子(否定演算子)の投影性質を直接記述しているように思われる。具体的にはそれは、前提とは否定の下で埋め込みが可能な推論である、としている。

前提について上記の仮定が成り立つならば、文の前提はその文の否定の前提と同じになることは明らかである。しかし、否定以外の埋め込みからの投影についてはどうだろうか。非常にシンプルな投影の説明は、Morgan (1969)とLangendoen and Savin (1971)が最初に議論した累積仮説に基づいている。これは、打ち消しのような効果がないかのように、前提はつねに埋め込みから投影されるという考え方である。この動作をもたらす3値意味論1は、弱クリーネ結合子(Kleene, 1952)を用いることで得られる。(この記事で与えられたすべての部分/多価の意味論について)古典的に評価された引数に対して、結合子は古典的に振る舞うと仮定する。そして、弱クリーネ結合子(ボフバール内的結合子とも呼ばれる)は以下のように定義される。[*Aが(その前提Bが偽であるために)無意味のとき、¬Aも無意味としなければならないが、B→Aは真理値をもつとしなければならないので、そういう予測を出すような3値意味論が必要となる。]

Definition 3 (Weak Kleene)
弱クリーネ結合子をもつ文の何らかの項が古典的真理値を欠くならば、その文全体は真理値を欠く。[*例えば、Aが真理値を欠くならA∧Bも真理値を欠く、など。]

弱クリーネは、前提が一様に投影されることを含意するが、実際にはそうではないので、前提の理論としては失格である。クリーネのもう一つの体系である強クリーネ結合子は、この特性を持たない。

Definition 4 (Strong Kleene)
強クリーネ結合子をもつ文の古典的に妥当な論証が標準論理における真理値を決定するのに十分であるならば、その文全体は真理値をもつ。さもなければ古典的[真理]値をもたない。

例えば、古典論理では、連言は、その連言子の1つが偽であれば偽になると決まっているので、強クリーネの「かつ」でも連言子の1つが偽であれば連言全体も偽である。同様に、古典論理では、選言子の1つが真であれば選言は真でなければならないので、強クリーネの「または」でも選言子の1つが真であれば選言全体も真である。主な二項結合子の真理値表を以下に示す。[省略]

さて次の例を考えよう。

  • (12) 悪党がいるならば、その悪党(the knave)がタルトを盗んだのだ。

(12)の前提トリガーは「the knave」だけだと仮定する。このとき強クリーネは文全体として悪党の存在を前提としていないことを予測していることを示そう。定義1を用いて、(12)が古典的な真理値を持ち、かつ悪党が存在しないモデルを少なくとも1つ見つければ十分である。これは簡単だ。そのようなモデルでは前件が偽であり、上の強クリーネ表を見ると、条件式の前件が偽のときは、古典的には条件式が真であることがわかる。実際、強クリーネは(12)の前提を予測していない。これは弱クリーネと相反するもので、弱クリーネは悪党が存在しないというモデルにおいて(12)に古典的な値を与えることができず、したがって(12)はknaveの存在を前提としていると予測している。

他にも強クリーネが前提を予測する場合があり、予測された前提はわれわれが期待するものではない。このように、強クリーネは、悪党が存在するすべてのモデルと、トラブルがあったすべてのモデルにおいて、(13a)に古典的な真理値を与えています。つまり、(13b)の前提を予想していたかもしれないが、強クリーネは(13c)の前提を予想しているのである。この問題についてはすぐに戻ることにする。

  • (13a) 悪党(the knave)がタルトを盗んだならば、トラブルがあったのだ。
  • (13b) 悪党がいる。
  • (13c) トラブルがなかったならば、悪党がいる。

この30年間、前提に対する部分的・多値的アプローチの議論の多くは、否定の扱いに集中してきた。 具体的には、(14)のような打ち消しの例の扱いが問題となってきた。

  • (14) タルトは悪党によって盗まれなかった。そもそも悪党などいないのだ。

標準的なアプローチによれば、否定は、〈前提を保持する否定〉と〈前提を否定する否定〉とのあいだで曖昧であるとされる。前提保持否定(別名:選択否定)はすでに見たとおりであり、弱クリーネ体系と強クリーネ体系の両方に見られる。前提を否定する(あるいは排除する)否定は、通常のように真を偽に、偽を真に対応させるだけでなく、古典的な値を持たない引数を真に対応させると考えられている。したがって、(14)をknaveがいないモデルで解釈し、「not」を前提を否定する否定として理解した場合、「タルトは悪党によって盗まれた」は古典的真理値を欠くことになるが、「タルトは悪党によって盗まれなかった」は真となり、(14)は全体として真となる。

3. Pragmatic presupposition

前提に対するフレーゲ・ストローソンのアプローチに対して、ラッセルのオリジナルの非前提の仕事以外に、おそらく最も重要な哲学的反論は、スタルネイカー(1972、1973、1974)によるものであり、後にスタルネイカー(1998)で明確にされている。スタルネイカーは、前提の語用論的な概念が必要であると提案し、哲学的研究の適切な対象は、言葉や文が何を前提とするかではなく、人々が話しているときに何を前提とするかであるとしている。文章に付随する語用論的な前提とは、その文章が発せられたときに、話者が談話参加者の間の共通基盤(common ground)に保持されていることを通常期待する条件のことである。

Stalnakerの見解の1つの帰結として、前提の意味論的説明に反して、前提の失敗は意味論的な大惨事を引き起こす必要はないということが挙げられる。しかし、2つのより弱いタイプの失敗がある。(i) ある文Sを発話する話者が、Sのほとんどの発話がPという前提を伴っているにもかかわらず、ある命題Pが共通基盤にあることを仮定することに失敗する場合。(ii) 話者が共通基盤にないものを前提とする場合。(15a)はMullah Omarが生きているという前提がない場合、(15b)はルークが生きているという前提がある場合で、それぞれこの2種類の失敗が見られる。

  • (15a) Mullah Omarが生きていることを私は知らない。彼が死んでいるかどうかも知らない。
  • (15b) ベイダーはルークが生きていたことを知らなかったので、ルークをシスに改心させるつもりはなかった。

これらの例は、「準叙実的(semifactive)」と呼ばれる叙実的動詞のサブクラスを含んでおり、Karttunen (1971b)は、いくつかの人称と時制の形においてのみ前提を引き起こすと結論づけている。Karttunen自身が気づいたように、このような規定は動機づけられていない。スタルネイカーの語用論的な前提の説明では、これらの例は問題ではない。「know」という動詞は、その補語が真であることを前提とする必要はない。(15a)の第一文を聞いた聞き手は、もしMullah Omarが生きているということが共通基盤になっていれば、話し手はそのことを知っているはずだから、話し手の主張は間違っていることになると気づくだろう。したがって、聞き手は話し手が「know」の補語が真であることを前提としていないと推論することができる。一方、聞き手が(15b)に直面したとき、ルークが生きていたと仮定するのは一貫している。「know」を使う話者は一般的に補語の真実を前提としているので、ここでもそうだと考えることができる。

スタルネイカーの研究は、前提の意味論的概念に対する語用論的攻撃の雪崩の一部だった。Atlas (1976; 1977; 1979)、Atlas and Levinson (1981)、Kempson (1975)、Wilson (1975)、Böer and Lycan (1976)などの論者は、前提を会話の含意(conversational implicature)に似たものとして理解すべきだとする詳細な議論を展開している。一般に、これらのアプローチは、関連性の格率と量の格率を用いて、前提の推論を正当化する。例えば、Atlas (1976) は、否定の下に定冠詞を埋め込むと、定冠詞をあたかも広い範囲で参照的に作用するかのように扱って強化しない限り、量の最大値を満たすには十分な強さを持たない意味になってしまうと指摘している。この語用論的伝統の現代的な継承者として、Abbott (2000; 2006; 2008)、Simon (2001; 2003; 2004; 2006; 2007)、Schlenker (2007; 2008)がいる。AbbottもSimonsも、異なる前提のトリガーをひとまとめにするのではなく、区別することに腐心している。例えば、シモンズは、事実上の副詞やアスペクト副詞に関連する前提推論を、スタルネイカー的な推論とグライス的な推論を組み合わせて導き出し、付加的な「too」のような典型的な照応的なトリガーが従来通りに機能することを認めている。一方、シュレンカーの投影特性の語用論的導出は、標準的な格率と、少なくとも前提に特化したルールの両方を用いているが、前提のトリガーを細かく区別していない。

前提に対する語用論的アプローチの各々は、前提の供給源を議論するかどうかという点で対照的である。前項で述べた、一般的な会話の原則から前提を導き出そうとするアプローチは、前提の供給源と投影現象の両方を説明しようとするものである。しかし、スタルネイカーは、前提がどこから来たのかを説明しようとはせず、前提が意味論的前提と関連するかどうかに関わらず、推論の傾向であることを示しただけである。このように、前提の出所ではなく、前提の投影を重視する姿勢は、同時期のKarttunen(1974年、1973年)の研究にも通じるものがあり、これらの理論に影響を受けた研究の多くに受け継がれている。これは、Gazdar (1979a; 1979b)を筆頭に、Soames (1979; 1982)、Mercer (1987; 1992)、Gunji (1981)、Marcu (1994)、Horton (1987)、Horton and Hirst (1988)、Bridge (1991)、van der Sandt (1982; 1988)など、打ち消しに基づく前提の理論と総称されるものに特に顕著である。

打ち消しの説明は、前述のStalnakerの準叙実的な文の説明に遡ることができる。この説明では、前提が競合する会話的推論によって打ち消される。一般的なアイデアは、前提をデフォルトにして、実際的に困ることがあればいつでもそれを打ち消すというものである。Gazdarは、この説明を非常にわかりやすく形式化し、彼が「All the news that fits」と表現する一般原則に基づいて、他の多くの投影現象にも拡張している。ギャズダーのモデルでは、聞き手の戦略は、まず、内包、会話の含意、前提の集合を特定し、それを話し手のコミットメントの集合に追加しようとするものである。

Definition 5 (Gazdar: cancellation)
含意(implicature)と帰結(entailment)は前提を打ち消すので、聞き手は、含意と帰結の両方に適合する前提だけを自分のコミットメントに加える。残りの前提はすべて取り消される。

5. Accommodation

上記の説明ではカバーされていない充足モデルの最も重要な特徴は、調整(accommodation)である。調整は、Karttunen (1974)とStalnaker (1974)によって初めて議論されたが、Lewis (1979)によってそのように命名された。Karttunenはこの概念を次のように紹介している。

通常の会話は、先に述べたような理想的な秩序の中で進行するとは限らない。会話の文脈の中で前提が満たされていない文を使って、飛躍やショートカットをする人もいる。これは例外ではなく規則である。私は、文は常に、その前提を満たす文脈への増分であると考えられることを維持できると考える。現在の会話文脈が十分でない場合、聞き手は必要に応じて文脈を拡張する権利があり、期待される。(Karttunen 1974: 191)

これが一見簡単そうに見えても、前提理論の中でも特に議論の多いテーマであることを読者は知っておくべきであろう。

そもそも、調整には様々な概念があり、その中にはより厳密なものもある。説明のために、Heim(1982)の次の例を考えてみよう。

  • (33) ジョンはシューベルトについての本を読み、著者に手紙を書いた。

「著者(the author)」の意図する意味を決定するためには、聞き手は(i)著者が存在すること、(ii)その著者がジョンに読まれた本を書いたこと、を推論しなければならない。調整の広義の理解では、これらすべてが収容されるが、厳密な解釈では、(i)のみが収容され、(ii)は橋渡し的な推論となる。これは単なる用語の問題ではない。厳密に解釈すれば、「調整モジュール」のようなものがあり、それは世界の知識とは無関係であると主張することができるが、概念をより広く解釈すれば、調整は橋渡しと一心同体である。以下の議論を容易にするために、ここでは調整の厳密な概念を採用し、調整されるものは、例えば、定冠詞付きNPや叙実的動詞によって引き起こされる前提であるという素朴な見解を取る。

文献

  • Beaver, David I., Bart Geurts, and Kristie Denlinger, “Presupposition”, The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2021 Edition), Edward N. Zalta (ed.).

  1. クリーネの論理はもともとアルゴリズムの停止性についての議論を行なうために定義されたもの、ボフバールの論理は嘘つきパラドックスの解消のために提案されたもの。 ↩︎

2021年6月24日
2021年8月14日
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